「『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう』。山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた」

 これは昨年11月20日付の朝日新聞朝刊に掲載された「キャラ 演じ疲れた」という記事の抜粋です。この女子生徒は友だちからツッコまれるのを防ぐために"天然キャラの不思議ちゃん"を演じていたそうなのですが、あまりに「本当の自分」とかけ離れたキャラ設定だったため、それに疲れてしまったというのです。

 他にも同記事では、"いじられキャラ"を演じてクラスの居場所を確保したり、"毒舌キャラ"と呼ばれていた女子が、実は「まわりに毒舌を期待されて疲れる」と悩んでいるエピソードが紹介されています。しかし、こうした若者たちの多くは他人のキャラに関しては饒舌に説明できるのですが、いざ自分自身のこととなると「よくわからない」と答えるだけだったそうです。

 この「わからない」の意味について、精神科医の斎藤環さんは「みんなからどういうキャラとして認知されているかはわかるが、それが自分の性格と言われてもピンとこない」ということだと指摘します。つまり、"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。
 
 しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。

 しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。



『キャラクター精神分析』
 著者:斎藤 環
 出版社:筑摩書房
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