『T京マンガ』座談会(5/5)「理想のマンガ学科の授業とは」

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【漫画座談会について】漫画に関係するゲストを迎えながらTwitterやメールなどを活用して座談会を不定期におこなってます。前回の漫画座談会はこちらからどうぞ。(企画:深水英一郎、編集サポート:古街、ニコラシカ)


●参加者
喜多野土竜:元編集者・漫画原作者
一色登希彦:漫画家。「日本沈没」「モーティヴ」「ダービージョッキー」等
スチームトム:新人漫画家。社会人生活を続けていたが、2010年に突如仕事を辞め独立。ゼロから漫画家の道をスタートしたばかり。この座談会の進行役
タマ:漫画家志望の学生
とと:漫画家志望の学生
岡本健三郎:原作者志望の大学院生(新人賞受賞歴有、博士後期課程)

●『T京マンガ』座談会(5/5)「理想のマンガ学科の授業とは」

質問5
どんなマンガの授業が理想ですか? もしくは、どんな授業だったら受けてみたいですか?


タマ:
理想のマンガの授業……と改めて問われると難しいです。喜多野さんが仰っていたように、プロのマンガ家になるのであれば本当に大切なのはマンガのネタづくりのための経験や体験であり、技術面に偏っていては駄目。お恥ずかしいことに私もこの学科に入る前や入学当初はそこを勘違いしていて、キャラクター描写技術や背景技術の向上ばかり気にかけていました。でもその経験や体験を大学の授業で学ばせてくれ! なんていうのは到底無理というか、そういうのは自分でやりなさいという話なわけで……。

喜多野:
そこに気づいただけでも、少なくとも大学4年間を棒に振らない可能性は高まったんじゃないかな……と思います。

スチームトム:
おお、タマさんやりましたね!

タマ:
ただ“大学”の“マンガ学科”ですから、マンガを学問的に、あるいは文化的に研究する授業はもっとあってもいいのではないかと思います。

とと:
それは私も確かに思います。せっかくの“大学”の中の“マンガ学科”なのに物足りなさがあるなと感じていたので。

喜多野:
それは、難しい課題かも。繰り返しになりますが、大学や専門学校はマンガを簡単なものだと思ってますから。自分は普通の学科の学生だったので、大学時代は呉智英氏の『現代マンガの全体像』とか別冊宝島のマンガアニメ関係特集とか、サブカル関係の本を読みまくっていましたが、それをメインカルチャーの場である大学で教えるのは抵抗があるかもしれません。

もちろん、京都精華大学とかでは、その時に読みまくった書き手の何人かが教授や講師に招かれています。そんな方々に直接教えてもらえるんですから、その点では羨ましいと素直に思います。でも、そのレベルの教員をそろえてるところは少ないんじゃないかと思いますよ。本当にとがった見識を持っている人は、アカデミズムの場になじみにくい部分もありますから。

とと:
正直なところ、タマさんと同じで、いつも結局のところどんな授業を自分は望んでいるのだろうか、というのを悩んでしまいます。
個人的には、プロやマンガに関係したものに携わっている方達と接したりする機会が一番欲しかった部分がありました。だから、いろんな関連した業界の方のお話を聞いたり接する機会がある部分では、現状にある意味満足しているところはあります。自分に不足している技術部分をある程度補える場も与えられ、知識部分でも個人では到底無理なことを学べてはいますし。

喜多野:
大学で自分の才能を伸ばしてくれる教員にめぐり合う可能性は低くても、良き友に出会う可能性は高いわけですから。大阪芸術大学にしても、同じ時代に才能が集まって、相互に刺激し合いながら人材を輩出した側面が大きいのではないでしょうか。

ちなみに、自分の母校は早稲田のようにマスコミに強い大学ではなかったけれど、なぜか自分の同期と一個上の先輩がいたゼミから、自分も含めマンガの編集が三人出ています。また中学のクラスメートは、アニメーターですがマンガの本も何冊か出しています。トキワ荘ほどではなくても、才能があるとき・ある場所・ある時間に遍在することってよくありますから。出会いの場としての大学は、意義が大きいと思います。

とと:
利用できるところは利用、吸収し、後は自分の努力次第だと思っている段階なので、なんとも私からは言えないのが結論です……。

喜多野:
それが一番まっとうな態度じゃないでしょうか。例のマンガが非常に良い点を突いているのは、ちゃんとがんばってる南さんという人間がいて、マンガ家にはなれなかったけれど人生の進路のかじ取りは成功した友人がいて、主人公は自分は何者でもなかったと最後に気付かされたわけですから。でもそれって、実は西原理恵子先生も経験してることなんですよ。

学生時代は、六本木とかで個展を開く芸術家を俗物と蔑んで自分たちならセンス良くこうする……と、大学の仲間と夢を語っていたけれど、いざ卒業間近となって何者でもない自分に気づいた。慌てて手書きの名刺を作って、何でもやります絵も描けますと書いて、いろんな人に配りまくったそうです。でも仕事なんかもらえなかった、と。当たり前の話ですね。もっとも西原先生はそこから自分の人生を独力で切り開くわけですが。けっきょく、挫折の先に何を見つけるかではないかと思うんです。

スチームトム:
いい話ですね。そういうエピソードって諦めない心を培いますよね。
諦めない心を持っている人だけがクリエイターとして生き残っているのでしょうね

喜多野:
多少の才能より、折れない心が重要って場面は多いと思います。

岡本:
これまで独学でやってきた自分としては、やはり“独学ではなかなか学べないこと”を教えてくれる授業を受けたいですね。抽象的ですみません。例えばですが、タブーを教えてもらえる授業等があれば受けてみたいです。メタ発言を連発してはいけない、とか。

喜多野:
独学で学べない……例えば、エロマンガの描き方とか?(笑)。

スチームトム:
いや、業界タブーっていう意味じゃないですか? 例えば、少年J誌に乳首はNGですとか。ただ乳首NGかどうかなんて、見てればわかりますけどね……。

喜多野:
冗談はともかく、業界のタブーとかは微妙な問題ですからね。差別、ということの絡みもあってデリケートです。そこら辺の扱いは出版社ごとにスタンスが違いますし、多くは明文化されているものでもないですから、大学の講義で教えられるようなものではないですね。マスコミや出版社は政治家や公権力には強気でも、暴力団と人権団体にはとっても弱腰です(笑)。

大学の講義で言葉狩りの問題や表現規制の問題を教えても、それは割と先鋭的な意見になるんでしょうけれども、では新人作家がそこに疑義を唱える作品を描いても、まずは担当の壁がある。担当が同意しても編集長の壁がある。編集長の壁を何とか突破できても、会社の壁はよほどのことがないと突破できない。作家は、発表の場を出版社から貸し与えられているだけですから、会社の存続を危うくするような作家は敬遠されるだけですからね。

岡本:
雑誌に掲載されている作品はある程度、自分でそれを分析できるのではないかと思います。この作品はこういう要素がヒットにつながったとか、逆にこういう要素が足りなかったからヒットしなかったとか。あくまでも自分の視点でですが、分析できます。でも掲載されている作品というのは編集者の方の修正や、新人賞の審査といった、いわばフィルターをくぐり抜けた作品です。新人にとってはある意味成功者の作品です。

一方ある意味失敗者の作品、つまりフィルターに引っかかった作品というものは、自分の原稿以外でなかなか目にすることができません。ですから何をやってしまうとフィルターに引っかかってしまうのかに関する分析はなかなかできません。ゆえにもし「これはやっちゃダメ」みたいな定番要素のようなものがあれば、そういったものを是非学んでみたいですね。

喜多野:
なるほど。たぶん、マンガ家を育てるというか導くという点では、編集者を教授に迎えたほうがいいでしょうね。なぜかといえば、実は投稿作の数多くの失敗例を見てるから。また、自分自身も作家との打ち合わせの中で試行錯誤を重ねているから。マンガ家では鳥山明先生のボツ原稿500枚が伝説になっていますが、個人で関われる創作の量に限界があります。

でも、編集は月刊誌系で増刊もあると、月に10本とかの作品は当然ですし、自分とかだとマイナー誌だったのでとにかく新人を育てないといけないので、ちょっとでも見どころのある投稿者は何十人も声かけて、プロットやネームを毎月膨大な数打ち合わせしていましたから。

でもそこのノウハウって、たぶんその編集の一代芸なんです。『少年ジャンプ』ですら、先輩の背中を見て自分で確立しろって世界ですから、難しいでしょう。自分から見たらお粗末なマンガ論を得意げに語る編集って多いですが、それでもその人間がヒット作を出せる。仏教では「大道無門」という言葉がありますが、悟りに至る道はいろんな方法論があるという意味です。マンガもヒットに至るメソッドなんかない、という感じですかね。ただ、失敗のメソッドは蓄積できるかもしれません。

そうやってマニュアル化されたら、今度は対抗運動が起きて否定され、それがまたマニュアル化され……という繰り返しになるでしょうから、けっきょくは個人の名人芸として、確立していくしかないというのが、自分の感触です。

スチームトム:
私も大賛成です。個人の名人芸に勝るものはないと感じます。つまりまとめると、マンガ学科では、個人の得意不得意を見極めて個人の名人芸を原石から輝かせてくれる授業、引き出してくれる授業が一番受けたい授業ですね。要するに『ドラゴンボール』の最長老がクリリンののびしろまで力を引き出した、あの感覚じゃないでしょうか。

勉強では東進ハイスクールのような一流の塾は結構、最長老っぽい引き出し方をしていると思います。マンガ学科でもそんなエキスパートな……つまり言葉を変えると手っ取り早く点数を取れる授業を教えて欲しいと、そういうことでしょうか? ととさん。

とと:
そのたとえの感覚凄く想像しやすいです。そうですね、手っ取り早く要所要点を突いて点数を取れる授業を望んでいるかといわれるとまさしくそうであるなと思います。どうしても、大学という中で専門学校よりも様々な分野や知識を得られる分、自分でそこから独自のマンガ家への道筋というものを想像していくのは難しいと思います。だから、知識やノウハウとして大学でしか学べないものを学びながらもマンガ家へのピンポイント的な道筋、個人の能力の良さを最大限伸ばしていける方法等を提示してくれる授業というものは非常に求めているものであると思います。

喜多野:
そういう点では、学校型システムの限界はあると思います。マンガの場合は、ある種の徒弟制度といいますか、師匠から弟子に伝えられる部分って確実にあると思うんです。それは効率が悪いので学校制度が生まれたのですが、学校制度ってバラバラの個性を平均的に均質に、効率よく育てるシステムです。吉本興業のスクールも同じですね。

それに対して徒弟制度とは、濃密な人間関係の中で、その人間向きにとてもカスタマイズされた伝授がなされるわけで、質は高くても大量生産には向かないと思うんですよね。マンガ家というのはまだまだ、個人の名人芸での部分が大きいので。ただ大学の場合は、ゼミがその代用をするかなという期待はあります。

この対談とは別に、一色さんの意見をそこら辺について伺いたいですね。学校方式と徒弟制度という点からすれば、やはり徒弟制度の中から育ったマンガ家さんの視点で、システム的な違いとか考えを、ぜひお聞きしたいところです。

一色:
今回は口数少なくいこうと思い、最後にのみ、言い添えます。
色々と「なんだろうなあ」という実態はあるのだと思います。
が、大学等の専門的学問が実際の経済社会であまり役に立たないのは、今回の“マンガ学科”に始まったことではないと考えています。

哲学科を卒業した人が全員哲学者になるわけでもないし、法学部を卒業した人すべてが弁護士と検事と裁判官になれるわけでもないですよね。
なれるわけでもないし、そうした学科に進んだ人すべてが「哲学者・弁護士・検事・裁判官になれなかったら死んでしまう」との覚悟で入ってくるわけでもない。

そう考えると、“マンガ学科”と名のついた場所に(主に多分)親の金で行くだけで簡単にマンガ家になれるわけでもない、ということは、想像がつくことです。

マンガ学科に進む学生すべてが、「マンガ家になれなかったら死んでしまう」とは思っていないはずです(思っている人ももちろんいるでしょう)。
でも、プロのマンガ家さんになった人というのは全員、「マンガ家になれなかったら死んでしまう」と思っていた人なんです。人によってその点に表現の違いはあると思うけれど、僕は、そうでないプロのマンガ家さんはいないと思う。
その覚悟の違いがある時点で、プロのマンガ家さんから見る“マンガの専門学校、大学のマンガ学部・学科”は「ぬるい」という印象が伴うのは無理からぬことです。

むしろ、それでも学年にひとり、あるいはその瞬間に全学でひとりでも、マンガを描くことが上手くなって、新人賞に出して担当が付くくらいの人が出ることの方がめでたいことかも、と言えます。

喜多野:
先頃亡くなられたみやわき心太郎先生は、親からマンガ家になることを反対されて、家出同然で上京されたそうですね。マンガ家になれたらもう死んでもいい、と。家族を飢えさせないためにマンガ家になったちばてつや先生や平田弘史先生、就職したけれどその職業が肌に合わずに崖っぷちに追い詰められた状態でマンガ家になった藤子・F・不二雄先生や横山光輝先生。

男子一生の仕事とはみなされていなかった時代、マンガ家になれなければ生きていけない、マンガ家で食えなかれば飢え死にするしかないという覚悟は、たしかに今の時代の学生に、求めるのは難しいかもしれません。不況だ不況だと言っても、戦後の世代とは豊かさの絶対値が違いますから。

一色:
この件(大学のマンガ学科)に関しては自分はかなり偏見にあふれている自覚があるので、多くの発言は控えたのです。

大学のマンガ学科に飛び込んだら、「こんなやつらと一緒にいたらダメになってしまう」と思うか、その上でなお「何とか自分と自分の周囲だけは良好なライバル関係・共闘関係を作り上げて、みんなで向上していく」という意思で行動を始めるか、それくらいしかマンガ家に正しく進む筋道はないです。

そうする意思を貫くなら、大学のマンガ学科での日々を過ごす意義が見えなくもないです。
が、そんなことは、自力でマンガを数本描いて投稿し、編集者とやりとりをしたり、同じくそれくらいのやり取りの中でプロのアシスタントをできる最低限のスキルを身につけて、プロのマンガ家さんのアシスタントを数か月でもやってみれば、全部理解できるし、身に付くことです。
大事なことは、そこから、です。

その中でさらに、アシスタント仲間、マンガ家志望者仲間をつくり、“自分的トキワ荘”を作り上げる。
あるいは、アシスタント先のマンガ家さんなり、知り合って行くプロの作家さんなりから学べる状況を作り、“自分的手塚センセイ”を持つ。
そして編集者とのやり取りを詰めてつく。
そうしたことが必要です。

大学に意義があるとしたら、そうした“仲間”“先生”を見つけて自分に熱を入れて鍛えていくことなのですが、一方で大学の“ぬるさ”は、そうした熱とは真逆の“グダグダな日々”の温床です。
なので、いまひとつ、大学のマンガ学科の意義に肯定的になれないのですよね。

喜多野:
好影響を与えてくれる仲間より、悪影響を与えるクラスメートや雰囲気のほうが、多分に多数派ですからね。自分の場合、大学時代に友人に恵まれましたが、トレーニングジムやバイト先で、年齢が大きく離れた人生の先輩方といろいろ話す中で得たもののほうが、大きかったと思います。あれも一種の自分的トキワ荘ですね。

一色:
とは言いつつ、自分も“マンガを教える”という事象に興味を持っていたもので、一昨年にとある大学のマンガ学科に見学に行かせていただいて、授業の様子や教授をされているマンガ家さんにお話を伺ったことがあります。

ここまでの話をひっくり返すようなことを言いますが、その授業の内容は有意義で、学生さんも熱心で、“良いライバル関係”が築けている人も多いように感じました。
とても印象が良かった。

でもそれは、その学校のシステムが普遍的に良いものなので、良い印象だったのだとは思っていません。

教えていたマンガ家さんや編集者さんが、非常に優れていて熱心で、その瞬間の学生さんも熱意にあふれていた。そういうことだと思います(実際にその後、大手の誰でも名を知っている雑誌でデビューとなった学生さんもいます)。

学校でマンガを教える、というシステムについて、自分や喜多野さんにとどまらず、多くのプロの作家さんがずいぶんと“ひとこと言わずにいられない”のは、「大学でマンガを教えられるものか???」と疑問を持ちつつも、マンガ家志望者さんには「何かを教えたい、伝えたくて仕方がない」からなのだと考えます。

前段の、喜多野さんからの振りにもありましたが、「いかにしてマンガ家になる要素・技術を身に付けるのか」という話は、いろいろな切り口からどうにかしてスジを見いだしたいものだと思っています。
本題からは少し逸れましたが、自分の考えは、このようなところでです。

喜多野:
最後はシステムではなく、個人の情熱とか場とか、そういうところに帰着するのではないかと。ただ、自分たちの言葉がちょっとでも助けになってくれたら、折れそうな心の支えになったり、折れた心の接着剤になってくれたらと思っています。

スチームトム:
なるほど、良いライバル関係に出会う……ということもマンガ学科の醍醐味(だいごみ)の一つですね。そこを言うとマンガを描いたこともない人間ばかり集まってライバルを探せと言われても難しいのかもしれませんね。
マンガ学科も入学条件をつければ、(商業雑誌受賞歴必須とか……)ライバル発掘の可能性も見えてくるのかもしれませんね。でも、そんなことしたら恐らく商業としてならないか……。吉本興業のように、本気で漫才師を目指すモンスターがうようよいる場があるだけで学校としては成り立ちますよね。ということは、出版社がそういう学校を作ればいいのかもしれませんね。ってことは『MangaOpen』に期待ですね。
あ、すいません、最後にぶつぶつ言ってしまいましたが、今回はこの辺でお開きにしたいと思います。

タマさん、ととさん、岡本さん、雑談ご協力ありがとうございました。
将来を担う若い3人の今後のご活躍に期待しております。

喜多野:
皆さん考えがしっかりしていますから、良き仲間たちと刺激しあって、夢をつかんで欲しいと思います。

(座談会おわり)




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