数学者や文学者には自由業のような人も......工学部とは責務が違う!?

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 筆者は大学生の時、理工学部に通っていた。そこで出会う理工学部の教授は、普段忙しくしているが、具体的に何をしているのだろう? と疑問に思ったものだ。もちろん、大学での授業はやっているし、研究もやっている。しかし、それ以外の時間は、どのように過ごしているのか。そうした疑問や大学のシステム、工学部の内部事情について書かれたのが、今野浩中央大学理工学部教授のノンフィクション小説『工学部ヒラノ教授』(新潮社)だ。

 自ら、学生として東京大学、スタンフォード大学で学び、教官として筑波大学、東京工業大学、中央大学で教鞭をとってきた今野教授は、金融工学の権威でありながらも、小説をしたためる器用な学者である。東工大で大学改革を体験した同教授に、今回の小説や大学院重点化政策などについて聞いた。

――本書執筆のキッカケを教えていただけますか?

今野浩教授(以下、今野) 約20年前に、作家の筒井康隆さんが大学内部のゴタゴタをシニカルに描いた『文学部唯野教授』(岩波書店)という本がベストセラーになりました。この本が社会に与えた影響は極めて大きく、大学はレジャーランドの刻印を押されてしまいました。しかし、工学部の実態は文学部とはまったく違います。そこで、誰かが本格的にそれについて書いてくれればいいと思ったのですが、誰も書かないので、私自身が執筆しました。

――映画などで描かれる研究者は、研究や授業以外は、とてもゆったりと暮らしているようなイメージがありますが。

今野 私が在籍していた東工大の人文社会学群にはそういう人が何人もいました。数学者や文学者は、自由業のような生活をしている人が少なくありません。しかし、工学部の教授には、学生をきちんと育てるという任務があり、そういう人たちとはまったく違う暮らしをしています。

――学生をきちんと育てるというのは?

今野 工学部はしっかり学生を教育して、産業界に送り込まなければなりません。学生の評判が悪いと、次の年から、その大学の学生は採用してもらえなくなるのです。だから、おかしくなりそうな学生がいれば、きちんと指導する。学生の指導の他に、国際レベルの研究、大学・学科運営などもあります。学生や教官のマネジメント、さらに、東工大時代は、大学変革の時期だったので、膨大な量の文書を作らなければならなかった。その他にも、工学部の教授は企業における技術指導や学会業務、政府の委員会などと多忙を極めます。

――工学部の教授が一番忙しいのでしょうか?

今野 一番大変なのは研究・教育・雑用のほかに診療がある医学部教授ではないでしょうか。工学部には、診療はありませんからね。

――大学院重点化により、各大学は、学部を中心とした教育組織から、大学院を中心とする研究重視の組織になり、大学院の定員が増加し、修士号や博士号の取得者が増加しました。先程の話にも出ましたが、その大学改革時期に、先生は東工大にいました。大学院重点化の煽りを受け、現在博士号を持ってはいるが、職がない人や任期付のポストにしか就けない研究者が問題になっています。そこで、大学院重点化についてお聞きします。今野先生は、スタンフォード大学の大学院を卒業されていますが、日本の大学院とアメリカの大学院を比べた場合、教育に大きな違いはありますか?

今野 あくまでも工学部の場合に限りますが、まず日本では学部でかなりの基礎教育をやっているという認識があるので、大学院に入ると狭い範囲の先端的なことを教えます。それに対して、アメリカの学部では日本ほど基礎教育をやっていないので、大学院に入ると本格的なスクーリング(講義プラス宿題)で基礎教育を受けます。しかし、この教育が日本に比べてとても厳しい。最初は初歩的なところから始まりますが、宿題をたくさん出して集中的にトレーニングします。

――具体的にはどれくらいですか?

今野 たとえば、1時間の授業に対して3時間分の宿題が出され、1科目につき、1時間の授業が週に3回あるので、宿題だけで週に9時間はある。5科目を履修すると45時間になる。1科目を通年で勉強すると、たとえば『金融工学入門』(日本経済新聞社)という日本語版で600ページ以上ある教科書を、練習問題も含め、丸一冊全部やらされる。そうすると、金融工学に関する体系的な実力がかなりつきます。こういった幅広い基礎教育は日本の大学院ではやりません。

――現在、大勢の博士号を持った若者が職に就けていないことが問題になっています。今後、どうすれば大学院教育が改善され、職にあぶれないようになると思いますか?

今野 それには大学院での教育の中身を、企業が採用したくなるように幅広い基礎教育を行い、特定の狭い分野だけではなく、より広い知識をもった人材を輩出するようにすることです。そうしないと企業と学生のミスマッチはいつまでも解消されないでしょう。

――実際にそのような教育に変えていくためには?

今野 こういったアメリカ型の大学院教育をするには、研究に50%、教育20%、雑用に30%という日本の標準的な工学部教授の時間配分を変えなかえればならない。教育に割く時間を少なくとも30%にまで高める必要があります。

――政府は最初からこんなに大勢の職のない博士が生まれることは分かっていたのですか?

今野 政府は企業にいろいろとプッシュはしていました。ただ、大学というところは村社会なので、どこの大学の誰先生のところの博士は使いモノになるかどうかという情報が行き渡っています。大学が人を採用するときには、そういう情報によって判断するのです。新設の大学院で、あまり情報がない研究室の出身者はなかなか採ってもらえません。大学ですら情報がないのですから、企業はさらに情報がないわけですから採用しないでしょう。

――そういう理工系の博士号を持った人たちを、どういう分野で活用すべきでしょうか?

今野 理工系離れが言われて久しいですが、企業の元エンジニアが中学校などで授業をすると大変人気があるそうです。我々の高校時代にも、数学や物理を専攻した博士号を持つ人が高等学校の先生になることは珍しいことではありませんでした。部活などでかなりレベルの高い専門的知識を教えることもできるし、それによって生徒のモチベーションを高めることもできます。高等学校の先生というのは、やりがいのある仕事だと思うので、就職先としてもっと開拓すべきだと思います。

――『工学部ヒラノ教授』について、発売前にご友人や学生に原稿を見せたということですが、反響はいかがでしたか?

今野 友人は、こんなに大学の内情を書いて大丈夫なのかという反応がありました。学生からは、大学というものの仕組みがよく分かったという反応もありました。私自身も、平教授をやっている間は、大学の仕組みがよく分からなかったのですが、学部長になってみてはじめてよく分かりました。平教授のときは、なんで俺がこのようなことをやらなければいけないんだ、と思ったこともありましたが(笑)。

 本書は、大学での出世スゴロクを上がる過程で出会った文系スター教授、東工大での裏話、論文の書き方や研究費獲得のノウハウまで内容は多岐に渡っている。大学という不思議な組織を眺めるには、絶好の書ではないだろうか。
(文=本多カツヒロ)

●こんの・ひろし
1940年生まれ。東京大学工学部応用物理学科卒業、スタンフォード大学大学院オペレーションズ・リサーチ学科修了。筑波大学電子・情報工学系助教授、東京工業大学大学院社会理工学研究科教授等を経て、中央大学理工学部経営システム工学科教授。著書に『「理工系離れ」が経済力を奪う』(日経プレミア)、『すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇』(新潮社)、『金融工学20年 20世紀エンジニアの冒険』(東洋経済新報社)など多数。



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