必要以上に英雄化されたところで 犠牲者は喜ぶというのだろうか?

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海外で大きな事故や事件が起きる。すると、日本のマスコミは、THE YELLOW MONKEYの吉井和哉さんが『JAM』という曲で歌うように「乗客に日本人はいませんでした」の世界に没入し、騒ぎ立てる。そういう報道を見聞きするたび、「日本人に犠牲者がいなけりゃ、それでいいのかよ」と思う。

けれど、自分は日本人だから、同じ日本人が助かっていたらいいなあ、となんとなく思ったりもする。さらに、ご遺族には申し訳ないが、同じ日本人が「事故現場で生きているのか死んでいるのか」という素朴な好奇心もある。だから、海外の事故や事件における日本人の安否確認は、テレビでいえば視聴率が取れる。

そんなわけで、いろいろ言いたいことはあるけれど、安否確認まではよしとしよう。筆者が気になるのは、そこから先の話である。それはズバリ、亡くなった犠牲者の英雄化だ。

例えば、国連が暫定的に統治していた1993年のカンボジアで、国連ボランティアのスタッフとして働いていた青年が射殺された。犯人はわからずじまいであり、現地にいた筆者は、この事件について、「よくわからない事件だなぁ。いずれにしても、日本人がこの国で順調に働くのは、大変なんだよね」などと思った程度であった。

ところが、青年の死後、マスコミを中心とする青年の英雄化がはじまった。「苦労の多い国で、ボランティアとしてがんばっていた」、「高い志を持って働いていたのに、亡くなって残念だ」、「すばらしい青年だった」……。たしかに、そうなのかもしれない。だが、現地には彼と同じような仕事をしながら生きている若者が、山ほどいたのである。

ニュージーランド南部地震で被災し、3月6日に死亡が確認された平内好子さんに関するマスコミ報道にも、いま述べた青年の英雄化と同じにおいがする。ここ数日は、高校の元校長で、定年後はニュージーランドで語学の習得と微生物の研究をしていた平内さんをほめたたえる報道がやたらと目立つ。

そんな報道を見ながら、マスコミの姿勢についてまず思うことは、死んでからほめたたえ、英雄化するのではなくて、死ぬ前にほめたり英雄化すればいいんじゃないかということ。つぎに、注目されている事件・事故の報道を長続きさせるために、犠牲者を英雄化するという姑息な手段をつかうのは、そろそろはやめたほうがいいということ。

海外での事件や事故で亡くなった日本人の冥福は、深く祈りたい。しかし、必要以上に犠牲者を英雄化する必要もないと思う。そういう報道を見るたび、筆者の脳裏にはぼんやりと“ヤスクニ”の“英霊”が浮かびあがってしまう。

(谷川 茂)


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