苦しい戦いを経ていることでチームは成長している(Photo by Tsutomu KISHIMOTO)

写真拡大

胸のすくような勝利ではなかった。

6分というひと際長いロスタイムが終わりを告げた瞬間、第1戦に続いてテクニカルエリアで立ちっぱなしだったザッケローニ監督は右手の拳を突き上げた。しかし、僕自身は歓喜や興奮ではなく安堵に包まれていた。

スリリングな攻防となった何よりの理由は、もちろん、川島の退場にある。副審の旗はオフサイドを示していたから、不運だったのは間違いない。ただ、微妙なPKを与えた主審がしばしばそうするように、この試合を担当したイラン人主審は、日本にもPKを与えてくれた。主審の自作自演によって試合の行方が混沌としたわけだが、そもそものきっかけは長谷部のバックパスが中途半端だったことにある。長友と川島の意思疎通がスムーズならカバーできたはずだから、長谷部だけに責任を押し付けることもできない。

1点を争うクロスゲームとなった根本的な原因を探れば、勝負を決められなかったことに行き着く。試合後のザックは「これだけチャンスを作っているのだから、早く試合を決めないといけない」と振り返っていたが、得点シーン以外に少なくとも5度の決定機があった。「相手が(攻めに)出てきたのはあったけど、受け身に立ってしまった」(長谷部)という後半のゲーム展開も、後半開始早々に迎えたチャンスが得点に結びついていれば違っていただろう。

試合を殺す2点目を奪えなければ、相手の希望を断ち切ることはできない。ヨルダン戦で日本が勝ち点1をつかめたのも、2点目を許さなかったからである。苦戦の原因を川島や長谷部に押し付けるわけにはいかない。後半途中で退いた香川は、ドルトムントで見せる躍動感を発揮できずにいる。2−1というスコアは、チーム全体の“いま”を映し出した結果だった。

それでも、この勝利が持つ意味は大きい。

1996年にUAEで行われたアジアカップで、日本はグループリーグを3戦全勝で突破している。シリアとの初戦こそ際どいゲームだったが、ウズベキスタンとの第2戦は4−0の快勝で、中国との第3戦も1−0で勝利する。ディフェンディング・チャンピオンとして優勝候補の一角にあげられていた、前評判どおりの戦いぶりだった。

ところが、クウェートとの準々決勝で0−2の完敗を喫してしまうのである。長身FWをターゲットとしたシンプルな攻撃は日本のパスサッカーと噛み合わず、ボールは支配するもののゲームをコントロールしている印象は希薄だった。失点は守備陣の連携ミスによるものだったが、攻守においてリズムをつかめなかったことが守備のリズムを狂わせたと言える。

対照的なのは92年大会だ。UAEと0−0で引き分け、北朝鮮にもどうにか追いつく展開で、2試合連続のドローとなる。グループリーグ突破の危機に直面したチームは、しかし、イランとの第3戦で1−0の勝利をつかんだ。

勢いが、生まれた。中国との準決勝では、GK松永が退場になりながら3−2で勝利する。前回優勝のサウジアラビアと対峙した決勝戦では、それまでノーゴールだった高木が決勝点を叩き出したのだった。

ヨルダン戦を終えた選手たちからは、危機感という言葉が聞かれた。「アジアカップで勝つのは簡単じゃないということが、初戦を戦って改めて分かった」という長友のコメントは、チーム全体に流れる空気を表していたと言っていい。

アジアで戦う難しさを肌で感じたにもかかわらず、第1戦に続いて厳しい展開に追い込まれた。それでも、勝利は譲らなかった。10人になったあとで、シリアを再び突き放した。綱渡りで勝ち点を積み上げているここまでの2試合は、結成間もない若いチームにとってこのうえない財産となっている。「今日みたいな試合を経験できたのは、チームにとってプラスになる。勝つことによってチームワークは良くなると思うので」と松井は言う。逆境を撥ね退けることで一体感を強め、ピッチ上のパフォーマンスに好影響を及ぼした92年や04年大会のチームに似た雰囲気が、少しずつだが生まれている。チームを貫く芯が、太く強くなっているのだ。