簡略化された図式で語られることの多い"戦前"を再検証したという鈴木氏

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1941年12月8日に日本軍が真珠湾攻撃をしかけてから、69年が経った。アメリカとの太平洋戦争において、日本は無謀な戦いに邁進し、原爆投下という悲劇によって敗戦が決定的となるまでの間に、およそ300万人の国民が命を落とした。

GHQによって施された戦後教育は、「戦前」を悪の時代とし、太平洋戦争を全否定する史観に基づいている。「戦後生まれ」と言われる60年代初頭までに生まれた人々は、それが当たり前のものとして育った。日本政府も、1995年に村山富市首相が発表した「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」(一部抜粋)という“村山談話”を公式見解として引き継いでいる。

こうした史観を自虐史観と非難し、「正義の戦争」だったという人々もいるが、本当のところはどうだったのか、あの戦争はいったい何だったのか、検証はまだ誰も成し遂げられていない。

そうした中、国際日本文化研究センター教授の鈴木貞美氏が、先日「『文藝春秋』とアジア太平洋戦争」(武田ランダムハウスジャパン)を上梓した。本書を書いた意図を鈴木氏に訊いた。

「20世紀の両大戦間の日本、あるいはアジアの様子が、今まで言われてきたことと違うぞ、ということにそろそろみんな気がつきはじめています。ところが巷では、まだまだ戦争の悲惨さとか、そういうのを伝えるものはたくさんありますが、実際の当時の日本人がどうだったかというところに関心が向かっていません。じゃあもう一度、冷戦が完全に終わったところで、冷戦期に作られた史観っていうのは違うのではないか、今ならちょっと落ち着いて総括できるのではないか、歴史の見方を当時の状況に戻って考えましょう、というのが一番大きな理由です。

 戦争当時、文藝春秋は一人勝ちの雑誌になっていきました。会社勤めをしている、30代〜40代くらいの人たちに広く読まれていて、非常に影響力がありました。軍部は戦争に突っ走ったわけですが、中間派みたいな人たちを引っ張っていったのは文藝春秋と言っても過言ではないわけですね。では、その中身はどうだったのか、中間派の人たちがどういうふうに戦争に引きずられていったのか、そこにポイントがあると思って、ずっと掘り起こしてみたかった」

日中戦争開戦時、戦争に反対する立場だった菊地寛の文藝春秋グループの文化人たちは、やがて太平洋戦争にコミットしていくことになる。戦後、菊地寛は戦争協力者として糾弾され、公職追放された身のままその生涯を閉じている。

「彼らは最初から軍国主義者だったわけじゃない。その人たちがどうやって動いたのか、はっきりしていなかった。そういったところを、日本の若い人たちにも考え直してほしいと思って検証していきました。彼らも、一人ひとり考え方が違います。親中国派みたいな人もいたし、早く戦争をやめさせたいと思っていた人もかなりいた。当時はああだったと、単純に語られるものではありませんでした。

デモクラシー対ファシズム、被害者対加害者というような、わかりやすいモノサシで世界をはかることはできません。たとえば尖閣諸島の問題にしても、日中間がとても緊張しているという報道が目立ちますが、実は中国にもいろんな考えの人がいる。政府のやり方に距離を取って見ている人も多い。親日と反日、親中と反中というような、今まで使ってきた単純なモノサシを疑わなければ、世界を見誤ることになります。歴史は大きく変わっています。冷戦期の図式じゃなくて、もう一度見直さなければならないのです」

戦前が悪の時代だったと決めつけてしまうと、思考はそこでストップしてしまう。当時を生きた人々も、現代の私たちと同じように、様々な意見を持っていた。

「でも、自由主義、中間派の人たちも、やがて戦争に突っ込んでいってしまった。それはなぜなのか。ここをもう一回チェックしておかないと、『もう二度と戦争しません』という言葉も、あてになりませんよね。自分なりのモノサシをしっかり作って世界を見ていかなければ、政治やジャーナリズムにふりまわされることになるのです」

尖閣問題はより先鋭化しようとし、朝鮮半島もきな臭くなり、単純に「戦争反対」だけでは立ち行かない時代に突入しようとしている。そんなときだからこそ、あの戦争をもう一度振り返ってみることは、日本人にとっての大きな課題であり、必要なことだ。そのために、戦前の言論がどんな経緯を辿ったのかを知る本書は、多くの人たちが手に取るべき本だ。

(文/田中亮平)

『文藝春秋』アジア太平洋戦争『文藝春秋』アジア太平洋戦争

著者:鈴木 貞美
出版社:武田ランダムハウスジャパン
販売価格:2310円(税込)