『七人の侍』の組織論

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今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

『七人の侍』の組織論
どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。これはなかなか興味深い問いである。前に、住宅についてのシンポジウムの席で、“コレクティブ・ハウス*”を実践している人から質問があった。

*:コレクティブ・ハウジングとは、複数の世帯が、1つのダイニングキッチンや庭などを共用し、相互に交流し、支え合う共同生活を営むための住宅。
参考:『コトバンク』
http://kotobank.jp/word/コレクティブ・ハウジング

その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブ・ハウスに参加したのではないか……」という猜疑(さいぎ)のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというおたずねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。

あらゆる共同体では“オーバーアチーブする人”と“アンダーアチーブする人”がいる。必ずいる。

全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。存在する意味がないから、“作ろう”と思っても作れない。あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない“マイナーメンバー”を含んでいる。幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。けれども、これらの“マイナーメンバー”を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。

あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった“私の変容態”である。それゆえに集団において他者を支援するということは、“そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私”を支援することに他ならない。

過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる。それはそこに参加する人間の“現時点での利便性”にもとづいて選択された共同体だからである。そこには“歴史を貫いて維持しなければならない共同体”の統合軸がない。共同体に蓄積された資産を“次世代への贈り物”であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する。

「では、どんな共同体なら生き延びられるのですか?」と重ねて質問があったので、ちょっと考えてから、こうお答えした。
「教育のための共同体、医療や介護のための共同体、それから宗教の共同体くらいでしょうか」

とっさの返事にしては、なかなか適切だったように思う。これら三種の共同体はどれも共通した特徴を持っている。それは“構成員のうち、もっとも非力なもの”を統合の軸にしているということである。教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。そのような共同体だけが永続性を持ちうる。

集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような“弱肉強食”共同体は長くは続かない(いずれお互いののど笛をかき切りあうようになる)。集団成員のうちのヴォリュームゾーンである“標準的な能力をもつ成員”の利便を最優先に配慮する“平凡”共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。もっとも耐性の強い共同体とは、“成員中のもっとも弱いもの”を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。

これは私の経験的確信である。

それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に“非力なもの”を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。

この七人の集団は考えられる限り最小の数で構成された“高機能集団”である。その構成員はまず“リーダー勘兵衛”(志村喬)、“サブリーダー五郎兵衛”(稲葉義男)、“イエスマン七郎次”(加東大介)。7名中の3名が“リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの”である。この比率は必須。“イエスマン”はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは“リーダーが見落としている必要なこと”を黙って片づける。その他に“斬り込み隊長久藏”(宮口精二)と“トリックスター菊千代”(三船敏郎)もなくてはならない存在である。

自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった“斬り込み隊長”の重要性はすぐにわかるが、“トリックスター”の組織的重要性はあまり理解されていない。トリックスターとは“二つの領域にまたがって生きるもの”のことである。それゆえ秩序紊乱(ぶんらん)者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかき乱すことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を“ブリッジ”することができるのである。菊千代は“農民であり、かつ侍である”というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの“武士的秩序”をかき乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの“リアルな連帯”を基礎づける。

七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが」
五郎兵衛の人事の妙諦(みょうてい)は“苦しいとき”を想定して人事を起こしていることにある。

私たちは人を採用するとき、組織が“右肩上がり”に成長してゆく“晴天型モデル”を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。

だが、企業の経営をしたことのある人間ならだれでも知っていることだが(「マージャンをしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を“悪天候”のうちで過ごすものである。組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。勝機に恵まれれば、小才のある人間ならだれでも勝てる。

しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。“苦しいとき”においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は“攻めの経営”というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。

けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で“救えるものを救う”ということは、勝ちに乗じて“取れるものを取る”ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。

そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして“救われたもの”だけなのである。勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。彼は“残る六人全員によって教育されるもの”という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。

これがこの集団が“農民を野伏せりから救う”というミッション以上に重きを置いている“隠されたミッション”である。なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。それは自分のスキルや知識を彼のうちに“遺贈”することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。

勝四郎の存在意義は『マッドマックス2』におけるブーメランを操る野生児フェラル・キッドの説話的機能と相同的である。『マッドマックス2』のラストシーンでは、夕陽を背に浴びて道路に立ち尽くすマックスのショットに、キッドのナレーションが入る。「私はその後、北の部族のリーダーとなった。年老いた今では昔の記憶はもはやおぼろげである。けれども、あのとき荒野に立ち尽くしていたマックスの姿だけは決して忘れない」
これは実はキッドのナレーションではない。

マックスが荒野に立ち尽くしたときに、“自分が死んだあとに長く語り継がれている自分についての伝説”を想像的に先取りしたものを“幻聴”しているのである。

なぜなら、「そうでもしなけりゃ、やってられない」からである。車は壊すわ、片足は折るわ、片目はつぶれるわ、ガソリンはないわ、食い物はないわ状態で荒野に放置されたマックスが“次の一歩”を歩み出すためには、“荒野にすっくと立ち尽くすヒーローについての物語”を語り継ぐであろう“次世代”を先取りする想像力が不可欠なのである。同じ仕掛けは『マッド・マックス・サンダードーム』でも繰り返されている。

マックスのあの異常なバイタリティを担保しているのは、この“幻聴”能力だったのである。知らなかったでしょ(私も今まで気づかなかったけど)。

『七人の侍』に話を戻すと、勝四郎は(フェラル・キッドと同じく)、六人の侍が死んだあとに、彼らについての“伝説を語り継ぐ者”という機能を先取り的に賦与されているのである。それゆえ、勝四郎が生き残り、末永く“侍たちのこと”を回想してもらうということは、六人にとって“こんなところで犬死にするリスク”を冒すために譲れない条件だったのである。勘兵衛はそれを洞察したからこそ、勝四郎を仲間に加えることを許した。それはこの戦いで「たぶん我々はみな死ぬだろう」と勘兵衛が思っていたからである。

侍だから戦いで死ぬのは構わない。だが、できるものなら最高のパフォーマンスを発揮した上で死にたい。そのための条件を考えて、勘兵衛はこの七人を選んだのである。

話をいきなり現代に戻すが、当今の企業の人事担当者の中には『平八』と『勝四郎』の重要性どころか、『菊千代』の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで“効率的な”組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。

そういう時代に就活をしなければならない学生たちがほんとうに気の毒である。もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは“若く、非力な”成員を全員で“支援し、育て、未来につなぐ”という仕組みをビルトインさせたシステムであるという“当たり前”のことをビジネスマンたちは忘れている。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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