教育のコストはだれが負担するのか?

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今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

教育のコストはだれが負担するのか?
増田聡くんが『Twitter』で、奨学金について考察している。

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もう奨学金という名称を禁止すべきではないか。学生向け社会奉仕活動付きローンとか、強制労働賃金(返済義務あり)とか、いいのがとっさに思いつかないけど、現実を的確に解釈しかつ人口に膾炙(かいしゃ)するキャッチーな概念をこういうときにこそ考案するのが人文学の仕事なのではなかろうか。マジで。

すくなくとも現状の奨学金は奨学金ではなく貸学金と呼ぶべきだよな。

貸学金:たいがくきん。うっかり借りてしまうと社会奉仕を義務づけられ単位取得が滞りしまいには退学に追い込まれてしまう、恐ろしい学生ローンのこと。

今知ったんですが“貸学金”という言葉は中国語に存在しまして、うちの留学生の王さんにきいたところを総合するとほぼ日本の学生支援機構“奨学金”と同種の学生貸付制度であるようだ(99年開始だとのこと)。一方で、中国には返済不要のちゃんとした奨学金も存在する。よっぽど中国の方がまっとう。

これからは日本の返済義務ありの自称“奨学金”は、貸学金と正しく呼ぶことを提唱したい。とりあえずいま変換辞書に登録した。

普通学生ローンでは親の収入とか聞かないですからねえ……。貸学金は就学困難学生対象、返還減免や利率減免もあり現状の日本学生支援機構の制度とかなり似てる。

結局、日本では高等教育の受益者は学生(とその親)でしかない、とする通念が強固なので、その学費は自由な参入と離脱に対して禁止的なまでに上昇してしまう。

となると、本来あるべき“高等教育を受けた人が社会を良くする(経済的に、を含むあらゆる側面で)ことによる社会全体の受益”のために、たまたま経済的困難を抱えて就学困難な学生を支援する、という奨学金の趣旨は見失われるし、高等教育自体の“名目化”も進行する。

高等教育の名目化とは、「高い学費自前で払ってる消費者やから、多少勉強してなくても学士号やっとくか」という大学現場の(われわれの)弛みに他ならない。

学生時代の恩師は大学紛争直後に大学にいた世代だが、のむたびに「昔は学費が安かったから出来の悪い連中を心置きなく落第させられたけど、今は卒業させないと学費かかるから落とせない」とこぼしていたのを思い出す。そういえば“落第”が大学現場で死語になり“留年”となったのはいつごろからだろう。

本来のscholarship(奨学金)というのは高等教育の自由な参入と離脱を保証することでその教育の質を保つ機能とともに、特に優れた学生へのインセンティヴとして機能していたはずなのだが(というか日本以外の国ではそうなっていると思うのだが)日本語でいう“奨学金”は何の機能を果たしているのだろう。

なぜオレが“奨学金”問題にこだわるかといえばその受益者だから。だが大学教員になったら返済不要な育英会“奨学金”ってそもそもおかしいやん、と強く思う。だったらお前は個人的に返せ、という想定される異論自体がおかしい、というのも含め、高等教育を個人的な財にしか還元しない思潮自体が変だ。
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増田聡氏のツイートより引用
http://twitter.com/smasuda

私も増田くんの奨学金についての考え方に同意する。現在の奨学金は本質的に“学生ローン”であり、その根本にあるのは、“教育の受益者は学生自身(および保護者たち)である”という信憑(しんぴょう)である。

人間が教育を受けるのは、“自己利益を増大させるためである”という考え方そのものが現代教育を損なっているということについては、これまでも繰り返し書いてきた。

しつこいようだが、これが常識に登録されるまで、私は同じ主張を繰り返す。

教育の受益者は本人ではない。直接的に教育から利益を引きだすのは、学校制度を有している社会集団全体である。共同体の存続のためには、成員たちを知性的・情緒的にある成熟レベルに導く制度が存在しなければならない。それは共同体が生き延びるために必須(ひっす)のものである。

だから、子どもたちを教育する。いくらいやがっても教育する。

文字が読めない、四則の計算ができない、外国語がわからない、集団行動ができない、規則に従うことができない、ただ自分の欲望に従って、自己利益の追求だけのために行動するような人間たちが社会の一定数を越えたら、その社会集団は崩壊する。

だから“義務教育”なのだ。ほとんどの子どもたちは“義務教育”という言葉を誤解しているが、子どもには教育を受ける義務などない。大人たちに“子女に教育を受けさせる義務”が課せられているのである。それは子女に教育を受けさせることから直接受益するのは“大人たち”、すなわち社会集団全体だからである。

社会集団には成熟したフルメンバーが継続的に供給される必要がある。学校は畢竟(ひっきょう)そのためのものである。公教育観が今のようにゆがんだのは、アメリカにおける公教育導入のときのロジックにいささか問題があったせいである。19世紀に公教育を導入するときに、アメリカのタックスペイヤーたちはそれに反対した。

教育を受けて、知識なり、技術なりを身につけると、その子どもはいずれ、高い賃金や尊敬に値する社会的地位を得るチャンスがある。つまり“教育を受ける”というのは子どもにとって自己利益の追求である。

そうであるなら、教育は自己責任で受けるべきである。本人か、その親が、将来期待される利益に対する先行投資として行うべきものである。われわれ成功者は自助努力によってこの地位を得た。だれの支援も受けていない。

そして、自分の金で、自分の子どもたちに教育を受けさせている。なぜ、その支出に加えて、赤の他人の子どもたちの自己利益追求を支援する必要があるのか。だいいち、そんなことをしたらわれわれ自身の子どもたちの競争相手を育てることになる。教育を受けたければ、自分の財布から金を出せ。以上。

というのが、公教育制度導入までのアメリカの納税者たちのロジックであった。いまの日本の奨学金制度を支えるロジックとほとんど選ぶところがない。それに対して、公教育制度の導入を求める教育学者たちはこう反論した。

いやいや、それは短見というものでしょう。ここでみなさんの税金を学校に投じると、どうなりますか。文字が読め、算数ができ、社会的ルールに従うことのできる労働者が組織的に生みだされるのです。その労働者たちがあなたがたの工場で働いたときに、どれくらい作業能率が上がると思いますか。それがどれくらいみなさんの収入を増やすと思いますか。

つまり、これはきわめて率のよい“投資”なんです。公教育に税金を投じることで、最終的に得をするのはお金持ちのみなさんなんですよ。“他人の教育を支援することは、最終的には投資した本人の利益を増大させる”というこのロジックにアメリカのブルジョワたちは同意した。

そして、世界に先駆けて公教育制度の整備が進んだのである。私はこのときの教育学者たちが採用した“苦し紛れ”のロジックを批判しようとは思わない。できるだけ多くの子どもたちに教育機会を付与することの方が、金持ちの子弟だけしか教育を受けられない制度より国益を増大させ、共同体の存続に有利に作用することは間違いない。この実証的態度を私は多とする。

けれども、このアメリカの公教育導入の“決め”の一言が「他人の子どもたちの教育機会を支援すると、金がもうかりますよ」という言葉であったことの本質的な瑕疵(かし)からは眼を背けるべきではないと思う。これは緊急避難的な方便ではあっても、公教育の正当性を基礎づける“最後の言葉”ではない。

公教育の正当性は、“金”ではなくて、“いのち”という度量衡で考量されねばならないからである。できるだけ多くの子どもたちに教育機会を提供し、それをつうじて知性的・情緒的な成熟を促すことは、共同体全体が生き残るために必須(ひっす)である。だれそれのパーソナルな利益を増減させるというようなレベルではなく、共同体成員の全員が生き延びるために教育はなされるのである。

子どもたちを教育することは、公的な義務である。一定数の子どもたちが高等教育を受け、専門的な知識や技術をもち、それを活用することは、共同体全体の利益に帰着する。だから公的に支援されるべきなのである。

奨学金はそのためのものである。

夏目漱石の『虞美人草』には、人々の篤志によって授かった高等教育機会を自己利益のために利用しようとする青年が出てくる。彼が受ける罰を詳細に描くことによって、夏目漱石は明治に学制が整備されたその起点において、“教育機会を自己利益の追求に読み替えてはならない”という重要なアナウンスメントをおこなった。その効果はたぶん半世紀ほどは持続した。

そして、いま消えている。

教育行政も、子どもたちも、親たちも、教育を受けること、勉強することは“自己利益を増大させるためのものだ”と思っている。教育のコストは自己負担であるべきだというロジックはそのような世界においては合理的である。私が言いたいのは、“教育のコストは自己負担であるべきだ”というロジックが合理的であるような社会は共同体として“滅びの道”に向かう他ないということである。

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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