連載「ふくびと」BEAMS社長 設楽洋 〜6.5坪の1号店から未来へ〜

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 1976年、原宿に誕生した6.5坪の小さな店。ここから「BEAMS(ビームス)」の歴史が始まった。アメリカのホームドラマの中の世界に憧れた少年時代の思いを原点に、人々のライフスタイルを提案し続けてきたのは、ビームス代表取締役社長を務める設楽洋氏だ。



 激しい時代の移り変わりの中「ハッピーを届けたい」という変わらないスピリットを胸に、個性の強いビームス軍団の舵取り役を務めてきた設楽氏。セレクトショップの先駆けとして時代をリードし、ビームスだからこそ取り組んできたあらゆる挑戦。これから果たしていくべき役割とは。そんな「ふく(服・福)」と深く関わってきた設楽氏の人生にフォーカスし、ビームスとともに歩んできた道のりを振り返りつつ、ヴィジョンや夢についても語ってもらった。


■アメリカの生活に憧れた少年時代

 私が生まれた1951年というのは、戦後ミッドセンチュリーのど真ん中で、文化の移り変わりが激しい時代でした。洋楽や映画で西洋の文化に目覚めた世代で、男の子はアメリカに憧れ、女の子が焦がれたのはパリ。アメリカのホームドラマを見ては、芝生に立つ白い家の生活に憧れる少年時代を過ごします。中学の頃に出会った洋楽や映画に刺激され、高校で仲間とフォークバンドを組みました。その頃はアイビー全盛の時代でしたから、アイビーカットにボタンダウンのストライプのシャツ、白いコッパンにコインローファーを履いて。そうして大学を受けたんですが、5人のバンドメンバーのうち自分を含めて2人が落ちてしまって浪人生活に。その時に流行ったのがウッドストックで、これまでアイビー少年だったのが突然髪を伸ばしはじめ、ベルボトムやロンドンブーツというような格好にはまりました。つまり、ちょうど自分の思春期が、まさに風俗や文化の移り変わりの一番激しい60年代にガーンとぶつかった訳なんです。

 そしていざ大学に入ってみたら、まさに学生運動の最後の頃で学校が封鎖。なので、晴れた日には湘南の海に行っていたのですが、横須賀のベースキャンプが近くにあったのでそこの少年達と遊ぶように。そこで年に数回バザーがあるっていうんで中に入れてもらった。するとそこに、夢に見たアメリカの生活が広がっていたんですね。芝生の中に白い家が建っていて、バスケットゴールで遊んでいる少年達が見た事もない白いジーンズやスニーカーを履いていて。そういうものが欲しいなあと心から思った。この憧れが、ビームスの原点につながっていったんじゃないかと思います。


■ビームス立ち上げのきっかけと、わずか6.5坪の1号店オープン

 大学を出て75年に電通に就職したんですが、今は亡き父が段ボールのパッケージの会社をやっていて、私が就職した頃にちょうどオイルショックが訪れた。紙の値段が高騰して事業の多角化を余儀なくされ、それがきっかけとなって76年にビームスを立ち上げました。これからは付加価値を与えるライフスタイル提案の商売をやろうということではじめたのがきっかけです。原宿に1号店をオープンしたのは76年2月。当時、周りにお店などがほとんどなかった時代です。元々八百屋さんの建物で、その中の一角を借りた6.5坪の小さいお店でした。倉庫もあったので店舗面積で言うとおよそ3.5坪。 そこで憧れのアメリカとがつながって、店名は「アメリカンライフショップ ビームス」と名付けました。

 内装費は50万で、お金がないものですから自分達でペンキを塗ったりして、UCLAの男子学生の部屋をイメージソースに店作りをしました。窓には青い空に白い雲のカーテン。真ん中にパインのテーブル。ろうそく立てやお香とか、スケボーのホイールやねずみ取りを置き、その中にTシャツやスニーカー、チノパンを並べた。売れないと買い出しに行けないといった状況だったのですが、やはりねずみ取りなんかは全然売れませんでしたよね。 自分は電通の仕事を続けていましたから私が情報を集める役割で、お店に立ったのは現・ユナイテッドアローズ社長の重松理さん。物が売れたら買い出しに行くという形でなんとかやっていきました。最初は苦労しましたが、そんな中でも売れたのはやっぱり洋服で、そこからだんだんと洋服屋に近づいていったんです。

 なのでビームスは、ファッションというよりも「アメリカのライフスタイルを売る店」という所が歴史のスタート。そのだいぶ後になってから、世間のあらゆる企業が生活文化提案を打ち出すような流れになっていくんですが、今考えるとビームスの「ライフスタイル提案」という形は、創業当時に築かれたもの。6.5坪の店が後に100坪200坪になっても、生活に関するあらゆる物を提案する店というスタンスは変わりません。赤ちゃんは大人になりましたが、当時のDNAはそのまま。これがビームスです。


■名前の由来とオレンジ色の袋の秘話

 ビームスは、父の会社名「新光」の「光」からとった名前ですが、3つの意味を持たせました。1つ目は「光線」という意味で、まだ光の当たっていないものに光をあてて世の中に出していこうという思い。2つ目は「梁(はり)」。そこに参加する人々が、「人」の文字のように組み合わさって、支え合って提案していこうというもの。そして3つ目は「beaming face」。"光り輝く笑顔"といった意味があって、世の中を笑顔にしていこうという気持ちを込めています。ブランドカラーのオレンジ色は、あたたかい太陽の色をイメージしました。

 オレンジといえば、一番最初のショップ袋というのはいわゆるクラフト紙にロゴを入れたものだったんですが、アメリカのスーパーで使われているような取っ手のない紙袋をイメージしました。ところが、なかなかアメリカ的なラフな味が出せなくて。日本の紙は良過ぎるんですよね。そういった袋を作ってくれる所を探しまわって、結局、頼んだ先は刑務所。裏話ですが、何回かその袋の中から囚人の手紙が出てきた事があったんですよ。

■NIKEを"ニケ"と呼んでいた時代から現代へ

 創業当時は、「アメリカで"ニケ"っていう靴が流行っている」という情報を聞いて買い付けて、店頭に並べてから初めて"ナイキ"と読むんだとわかったという、そのくらい物と情報のない時代でした。いざオープンしても、一般の人にはほとんど知られていなかった。それでも原宿のセントラルアパートにあった喫茶店「レオン」に集まっていたファッション業界や編集者の方々がお店に来てくれて、少しずつ広まっていきました。

 しかし、我々の業界というのは波があります。社会全体が不況になったり、トレンドの流れが一気に変わったりするときに売れなくなることは多々。そんなとき、セレクトショップであるビームスの強みというのは、時代の色に合わせるさじ加減が可能ということです。これまで何度もそういう経験をしてきましたが、DNAさえブレなければ、そして次の時代にちゃんとした正しい選択の引き継ぎが出来れば乗り越えることも可能だと考えています。

 ただひとつ、ジレンマとして心配なのは、旬を追って老舗になった前例がないこと。ずっとひとつのスタイルを突き詰めていって100年たてば老舗になる。でも旬を追っている所は新しい旬に凌駕される歴史なんですよね。新しい流行りのスポットが出来ると必ずそっちの方に行きたくなるのが心理。新たなデザイナーやブランドと、常に対等に勝負していかないといけないわけです。ビームスは、歴史があると言っても100年やっているわけではないのですから。マスコミもスタイリストの方も、やっぱり皆が知らないものを教えたいですよね。でも、ビームスはもう皆がとっくに知っている。ビームスという名前だけでは新鮮ではないわけですから。それでも、お客様がショッピングに5件まわろうとしたとき、4、5件目でビームスに行っておこうかな、と思って頂けるような。「外せない店」という位置に居続けないといけない。そのために何をするべきかを、常にフレキシブルな姿勢で考えています。


■モノと情報が溢れる今、ビームスが目指す姿

 今後のヴィジョンのひとつは、いままでの方法論をもっての新たな店の展開です。日本でも別の切り口を考えていますが、やはり海外の市場は大きな可能性を感じています。そしてもうひとつは、あらゆる生活カテゴリーにビームスのフィルターを通していくような新たなビジネス。モノと情報がなかった創業当初、若者はモノと情報に飢えていました。一方現代は、モノと情報があり過ぎるために、逆に飢えている時代なんです。男のライフスタイルというと、衣食住、音楽、スポーツ、セックス、車、酒、アート、ギャンブル、まだまだあって、女性はもっと広い。膨大な中からある程度セグメントしてくれる役割を必要としているんです。そのセンスと感性があれば、セレクトショップだからこそ出来る新たなビジネスモデルがある。この春、新たに「ビームス創造研究所」を設立したのも、次のステップへの第一歩です。

 100人いれば100のスタイルがあるのがビームス。ここに働く人が、ここに関係する人が幸せになる会社にしようという理念から全てが始まり、日本の風俗・文化を変えるという信念でこれまで挑戦してきました。でも、ただ儲かればいいという訳ではない。 面白い事と儲かる事は違っていて、上場しない理由もそういった所にあります。モノを通じてコトをおこすとか、モノで時代がちょっとでも動いたとか、その喜びをずっと感じていたい。ビームスがあることによって時代がちょっとでも動いたという現場に常に立ち会っていたい。原動力になりたい。 世の中がいい方向に変化していくきっかけになりたいと思うんです。それが仕事であり、これからもビームスのあるべき姿だと思っています。

■設楽氏を動かす原動力と夢

 自分のキャラ的に、本当は南の島で寝ころがってゴールデンサンセットを見るのが好きなんです。でもこれだけ早い業界に生きていますから、一方で早さも好きなんですよね。 いちばんの原動力は、自分自身も笑顔がすきですが、やっぱり周りの笑顔。「beaming face」の言葉にあるように。

 これまでスタッフやブレーンや、関わる人々と大きなターニングポイントを超えてきて、世の中に貢献できることも少しづつやってきました。自分個人でも、もっと具体的に世の中の何かに貢献できることをしてみたいと思っています。お金とか規模とかではなくて。足跡を残したいですね。

■設楽 洋(したら よう)■ ビームス 代表取締役
 1951年、東京生まれ。
 広告代理店「電通」時代は イベントプロデューサーとして数々のヒットを飛ばす。
 1976年、「ビームス」設立に参加。
 自らをプロデューサーと位置付け、その独自のコンセプト作りにより
 ファッションだけではなく、あらゆるジャンルのムーブメントを起こす仕掛人。


〜インタビュアー インプレッション〜

 「必ずどこかで抜きを作ります。ビシビシに決めて近寄りがたいっていうのは好きではないんですよ。」と話す設楽氏は、会話にしても装いにしても、必ずどこかに入りやすい要素をつくることを心がけている。他業種との取り組みも盛んだが、本当にそれが好きな人や、シーンをわかっている人たちの考え方やもの作りに興味があるという。「そういう人たちが文化を作っていくと思うんです。」その柔軟さと前向きな人間性、そして太陽のような笑顔が、まさに「ハッピー ライフ ソリューション カンパニー」の代表として、日本の風俗や文化に明るい影響を与え続けているといえるだろう。