前回のブログを書いたのは決勝戦を直前に控えたメディアセンターだった。よせばいいのに、決勝戦の予想まで披瀝し、見事外す醜態を曝してしまった。

でも、まぁ、自分自身を正当化するわけではないけれど、サッカーはそんな調子で楽しむスポーツだと思っている。だから、人前で自分の意見を語ろうとせず、結果が出た後、結果を外した人に「ホレ見たことか」と腐す輩には、「サッカー的」ではない奴との烙印を押すことにしている。「勝負」する精神のない奴は、サッカー選手同様、面白くないのである。笑いものになれない人、恥を笑い飛ばすことができない人を見ていると、僕は少し辛くなってしまうのである。

こうしたメンタリティが支配する日本に、ドリブラーやストライカーが生まれないのは当たり前だと言いたくなるが、それはさておき、少し辛くなったといえば、駒野友一選手にインタビューしていた先日の某報道ニュース番組を思い出す。

駒野が辛く見えたわけでは全くない。駒野にインタビューした女子アナの方だ。彼女は、この番組のスポーツコーナーに必ず登場するスポーツの専門アナで、年期もそれなりに積んでいる。分類すれば玄人になる。つまり、報道ニュース番組のスポーツコーナーを担当する年期を積んだアナが、PKを外した駒野に迫ったわけだ。

インタビューはほどなくすると、僕の悪い予想通り例のPK戦の話に移っていった。

そもそもPK戦は、クジ引きじゃああまりにも味気ないのでという理由で始まったいわば抽選の代用品だ。見栄えも良いし、スリルもドラマ性も味わえる「ショウ」的な要素を多分に含んでいるので、テレビ的にはクジ引きより美味しいものになるが、忘れてはいけないのは、あくまでも次のラウンドへ進むチームを決めるための手段だということ。試合ではない。サッカーそのもののように見えるが、サッカーではない。「サッカー的」なようで「サッカー的」でないゲーム。スポーツでもない。PK戦だ。独自に存在する領域になる。つまりサッカー評論の対象でも、選手評価の対象でもない。

「抽選」の時代を知っている僕は、PK戦が始まった当初、喜んで見ていた記憶がある。だが、高校サッカーやJリーグで、それを頻繁に見せられると、次第に興ざめしていった。そしていまでは、スポーツライターとしては見たくない儀式として位置づけられている。ワールドカップという大真面目な舞台では、その思いはいっそう強くなる。

PK戦だけは見たくない。スポーツライターとしての僕は、延長に突入したパラグアイ戦の戦況を、そう念じながら記者席から見つめていた。

だが願いは叶わず、120分の戦いを終わって試合は0−0。PK戦が催されることになった。だが、PK戦が本当につまらないモノかと言えばそうではない。チャンネルをグイと変えれば、それは極上のエンターテインメントに激変する。

何を隠そう、スポーツライターの僕にも、ワイドショウをこよなく愛すオバサン的な視点がないわけではない。

で、駒野の番になると、周囲と顔を見合わせ、中村憲剛に蹴らせろとか、玉田の方が良いだろーとか、ブツブツ言いながら、駒野の行く末を案じていたことも確かである。

こちらの悪い読みは的中。駒野はPKをバーに当て、日本のベスト8入りの夢は儚く散った。しかし、繰り返すがこれはサッカーではない。サッカーとは別の儀式だ。駒野は悪い「プレイ」をしたわけでは全くない。「サッカー的」なもの、「スポーツ的なもの」でミスったわけではない。クジを外した運の悪い男に過ぎないのだ。

試合後のミックスゾーンで、「いやー、外しちゃいました」と、取り囲む記者に、頭をかきながら一言いえば、それでお終い。それがサッカーというもの、スポーツというものだ。だが実際、そのミックスゾーンに映し出されたのは、サッカー的ではないウエットな光景だった。目を赤く腫らした駒野は、協会の広報に抱かれながら、うつむくように退場していった。