「ちゃんと学生時代に遊んでた?」

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今回はp_shirokumaさんのブログ『シロクマの屑籠(汎適所属)』からご寄稿いただきました。

「ちゃんと学生時代に遊んでた?」
大学生だったころ、年長者から「大学で、ちゃんと遊んでるか?」とよく質問された。

建前からすれば、大学は勉強をしに行くところのはず。だから親族や一部の教官までもが「大学で、ちゃんと遊んでいるか?」と聞いてくることに、当時の私は二律背反(にりつはいはん)めいた印象を受けたように記憶している。

幸か不幸か、私は好奇心の対象が散らばりやすい性質だったらしく、授業よりも同年代の仲間達とのレクリエーションやオタク趣味などにエネルギーを費やす大学時代を過ごした。無駄だらけの、あまり利口な学生ではなかったけれど、社会の色んな人と出会ったり、趣味や可能性を探って回ったり出来たのは幸運なことだったと思う。卒後しばらく経って、大人達が言っていた「遊んで来い」ってのは、「授業の外側で、世間知・仲間とのやりとり・共同作業のノウハウを身につけて来い」って意味だったのかな、と思うようになった。

遊びから学ばなければ、身につかないこともある
こういうのは、実際には大学生活だけに限ったものでもない。小学生〜高校生時代もふくめ、学校の授業で習うことだけインストールしているようでは、年齢ごとの社会適応に必要なノウハウを身につけることは出来ないだろう。大切なことを教わる場は教室だけではないし、大切なことを教えてくれるのは、教師や両親だけでもない。

例えば、同世代の友達との遊び方は、授業では教わらない。実際にクラスメートや友達と遊んでまわらなければ、身につけることも洗練させることも難しいだろう。コミュニケーションの“呼吸” *1 や非言語的なメッセージ、ケンカやトラブルの自主的解決などは、経験せずにマスターしていけるものではない。少なくとも、教科書だけで身につけようとするのは無謀すぎる。
*1:ここでいう“呼吸”とは、例えば、誰がいつどれだけ発言するのか・沈黙をどれぐらい挟むのか、といったリズムや間の開け方などを指す。

別の問題もある; 大人から受動的・義務的に教えられるという処世術だけ繰り返していては、すべてにおいて受動的・だれかにインプットされなければ学ばない行動しない人間としての処世術しか身につけられない。幸い、子どもというのは自主性と好奇心の塊なので、そこまで“いい子”を貫徹してしまう人はさすがに稀(まれ)にせよ、受動的にインプットするという姿勢が大人になっても染みついている人は珍しくない。リモコン人間に偏り過ぎないようにするためには、受動的・義務的に教えられる以外の、自主性や好奇心に導かれた学習機会や経験機会が必要とされる。

これらを踏まえるなら、学生時代にどれだけ遊んできたかによって、社会人になってからの社会適応が相当に左右される〜少なくとも遊びが社会適応に寄与する部分はある〜とは言えそうだ。遊びから学べること・遊びから学びやすいことを経験蓄積してなければ、そのぶん社会適応のハンディが出るのは当然のことであって、逆にそれで社会適応のハンディが出ないことのほうがおかしい。例えば、中学〜高校までの六年間、放課後を生真面目に座学で塗りつぶしていた人が、友人付き合いや遊びに思春期のリソースを割り振っていた人と同じぐらい流暢(りゅうちょう)なコミュニケーションの二十歳を迎えられたら、そのほうが不思議である。勉強をサボれば授業についていけなくなるのが必然なら、遊びをサボれば社会適応やコミュニケーションについていけなくなるというのも必然ではないのか?それとも、学びの機会を与えなくても生得的にそれらが身について当然だとでも言うのだろうか?まさか!

だから「大学行って遊んで来い」という親や年長者や教授(!)のアドバイスは、「好きに遊んでていいんだよ、ネットゲームづけでもいいんだよ」という意味ではない。座学では身につけられない経験や学習を、尊重された自主性のもと、勉強部屋や教室の外で身につけて来なさいよ、という意味だったわけだ。社会人にもなれば、親や教師に知識をインストールされるだけの社会適応では生きていけない。だから、その前段階の大学生活のうちに“しっかり遊んでおけ”ということだったのだろう。

「ちゃんと遊んでる?」「遊ばず勉強しなさい。」の二律背反
しかし、こういうのって、子どもの側からすれば大変なことだ。

建前としては「まじめに勉強しなさい」、けれども実際には「ちゃんと遊んでる?」と期待するのは、“勉強”と“遊び”がしばしばトレードオフの関係になりがちな以上、ときに二律背反的なメッセージ、ということになってしまうかもしれない。

それでも要領の良い子なら、ちょっとぐらい二律背反的な境遇にあっても、やたら座学に集中することなく適当に遊んで回るかもしれない。しかし要領の悪い子の場合、まじめに座学に集中しすぎてしまって、自主的な遊びがおざなりになってしまうリスクは高くなる。親が厳格な管理教育で臨むなら、尚更だ。受験勉強が強く意識されるなかでバランス良く“勉強”と“遊び”を摂取するのは、そんなに簡単だとは思えない。

ところが、“コミュニケーション能力”という曖昧模糊(あいまいもこ)とした言葉がもてはやされる現況が示しているように、社会適応に際しては“遊び”の経験蓄積がモノを言う場面がきわめて多く、座学で学んだ知識だけでは世渡りはおぼつかない。大人達は明らかに、“遊び”を通して身につけるべきノウハウをも、学生や新社会人たちに期待している。

建前としては「まじめに勉強しなさい」と言われつつ、本音としては「ちゃんと遊んでる?」も期待するという二律背反は、ただ家庭それぞれの教育方針だけの話でなく、世の中の風潮としてそうなっている、と私は考えている。セキュリティや学力アップの名のもと、学生の自主性を軽んじ、授業の出席管理を厳格化し、大人の目の届かない遊び場・たまり場をつぶして回ることを良しとするような状況などは、まさに「まじめに勉強しなさい」を具現化するような動きだと思う。しかし、まじめに勉強だけしていれば良いかというと、実際には大人達は「ちゃんと遊んでる?」と暗に要求し、卒業生に「お前、ちゃんと遊んでこなかっただろ!」と顔をしかめるのだからたまったものではない。

口うるさく「まじめに勉強しなさい」と言うに飽き足らず、学生生活や生活空間まで管理して、にもかかわらず、遊びを通して身につける世間知やコミュニケーションのノウハウをも要求する。こんな二律背反のなかで育てられ、それでもなお知識と経験のバランス良い大人になるというのは、曲芸のように難しいことだと私は思う。二律背反の程度が甚だしい場合、とりわけそうだろう。もし、教育システムとしてこれが一般化しているとしたら、恐ろしいことだ。

学生は、学業成績も大事だけど、“遊び”も大事。
そんな当たり前のことを、忘れてしまっている人が多すぎる。
 
執筆: この記事はp_shirokumaさんのブログ『シロクマの屑籠(汎適所属)』からご寄稿いただきました。

文責: ガジェット通信

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