――山崎さんの中で、阿久悠さんについてはどんな印象を抱いていますか?

山崎:とりあえず、顔は怖いよね (笑)。僕が初めて阿久さんを見たのはもう今から40年近く前になるんだけど、「スター誕生」の予選会かな。ゲスト審査員みたいなので、横に並んで座ったわけですよ。小林亜星さんも、都倉俊一さんもいらっしゃって。そこでひと際怖く見えたのは阿久さんだったし。それから阿久さんと再会するのは約20年後ぐらいなのかな? やっぱり相変わらず怖い顔でした(笑)。でも、あの顔が笑った時ってね、もうこっちが拍子抜けするぐらい気分が楽になるんですよ。緊張が一瞬にして解けるような笑顔。僕も最初は緊張していたけど、段々と普通のくだけた話もするようになってきたし。晩年はもう飲まなくなっていたお酒も、当時は美味しそうに飲んでらした。先生は普段の会話の中に、人生を語るような、すごく美味しいフレーズを散りばめてくれるんですよ。「わぁ!先生これ、このまま頂いていいですか?」みたいな(笑)。ただの作詞家じゃない、小説家でもないなと思って。もっと大きく言うならば、哲学者。しゃべる言葉の中に色んなうんちくがあって、それが会うことを楽しみにさせてくれましたね。共通の話題としては、先生も僕も関西出身なんだけど、いつも最初の30分ぐらいは「今年の阪神もやっぱりダメだなぁ〜」という話が枕言葉のようになっていましたね(笑)。

残念なことに僕と先生はあまり一緒に仕事をしていなくて、作品として出たものは非常に数少ないんですよ。なぜ先生が“多夢星人”という別の名前を作ってやり出したかは理由があるんだけど、“阿久悠”というブランドがデカくなり過ぎちゃった、頼む方も「阿久さんに頼んだらヒット間違い無し!」という期待感があったと思う。あの頃は、阿久さんも「いいもの、立派なもの、売れるものを書かないと」というものすごいプレッシャーがあったと思う。それで、シンガーソングライターの台頭、新しいタイプの作品が、どんどん従来の歌謡曲の作品と、同時に職業作曲家、作詞家も駆逐していった時代だと思うんですよ。その中で先生はもがいていたと思う。“阿久悠”というブランドを一旦置いておいて、もうちょっと軽いブランドを作ってみようかなという。例えば、メルセデスベンツが大型の車ばっかり作っているんじゃなくて、別の名前でコンパクトカーを、軽自動車を作ったらどうなるのか?みたいな感じだったと思うなぁ。それで、従来組んでいた、昔から繋がりのある先生達だけじゃなくて、いわゆるニューミュージック系の人達と一緒に作品を作り始めた時期だと思うんですよね。あの頃、大ヒットした曲に「三都物語」がありますね。

――今回収録されている多夢星人の未発表曲「泣き方を知らなかった」は、どんな曲ですか?

山崎:未発表曲は1992年に、“多夢星人”の名義で書いて頂きました。その中で先生と初めてかな?色々やりとりして、「先生、こっちの方がカッコイイですよ」って、勝手に詞を変えちゃったりもした。阿久さんを知ってる人の中には「信じられない!」と言う人が結構いるんですよ。業界内には「阿久さんは、絶対に書き直しをしない」とか色々な伝説があったそうです。でも、僕に対しては、非常に気軽に、まるで同じバンドのメンバー間で詞曲を作ってるような感じで。電話で「こう変えますけど、いいですか?」「あぁ、いいよ」という、非常にフレンドリーな中で出来た曲。残念な事に、当時は発表するチャンス無かったんだけど、今回このアルバムの中で是非やってみようと。本来はア・カペラ用の曲じゃないんだけど、中西圭三君が歌ってくれるということで、嬉しいですね。なにせ、これは阿久さんとコンビの新曲ですから(笑)。

――阿久悠さんと、他の作詞家さんとの違いを感じるようなことはありますか?

山崎:作詞家というのは、とにかく「癖のある人」が多い、作曲家も同じですけど(笑)。阿久さんは一言で言うと「理屈っぽい」。過去の70年代のヒット曲の中には、「ウララ~ウララ~」みたいな、理屈もなにも無いような歌がいっぱいあるのにね。晩年の阿久さんは、詞がどんどん小説のようになってたような気がする。でも、都倉先生に同じ質問をしたら全く違う答えが返ってくるかもしれないね。多分、僕が見た、僕が知ってる阿久さんは「阿久悠」のごく一部に過ぎないから。