「サッカーファン対岡田サン」以外にも対立軸はある。

「落選した選手対岡田サン」もそのひとつ。彼らはこの状況をいまどのように受け止めているだろうか。俺の分まで頑張ってくれ! と、素直にエールを送っている人はどれほどいるだろうか。単純に悔しがるだけでなく、「こんちくしょう」と、自分を評価してくれなかった岡田サンに、憎悪を抱いている人がいたとしても不思議はない。

98年フランス大会の最終メンバーから外された三浦カズと北沢、同様に02年日韓大会の最終メンバーから外された中村俊らは、その瞬間、岡田サン、トルシエの顔など2度と見たくないと思ったんじゃないだろうか。選ばれた選手でも、たとえば06年大会の遠藤などは、出場機会を1分も与えてくれなかったジーコに対していい加減にしてくれ! と、怒り心頭に発したはず。

何度も言うがサッカーは、個人記録が極端に少ない競技だ。調子の善し悪し、上手い下手が明確になりにくい特性がある。選ぶ、選ばないは監督の好み。趣味の問題になる。監督が目指すサッカーに合うか合わないかも重要な問題。岡田サン自身「上から上手い順に23人選んだわけではない」と言う。

選ばれた選手、スタメン起用される選手には歓迎すべき話だが、俺の方が上だとの自負があるそれ以外の選手には最悪。監督さえ交代すれば選ばれる、出場できると思っている選手は少なくない。日本ではよく監督を選手の恩師と言うが、実際そう思っている選手はどれほどいるだろうか。実際、両者は言われるほど美しい関係にあるわけではない。にもかかわらず、日本では監督批判が表面化することはない。他国に比べて圧倒的に少ない。

それは良いことなのか悪いことなのか。少なくとも僕は、そうした声で溢れている世の中の方が好きだ。その点に食い込もうとせず、丸く収まっているかのように見せるメディアの報道姿勢も、僕は好きではないし、そうかと思えば、岡田サンに「本田選手は守備したくないと言ってますよ」などと言いつけ口をし、つまらない波風を立てようとするスポーツマインドのかけらも感じられないメディアの姿勢も、同様に好きにはなれない。

本来、「メディア対岡田サン」も、立派に存在する対立軸だ。自らの趣味で、メンバーを決定することができる圧倒的な権力を持った人物には、チェック機能を働かせる必要があるはずだが、日本のスポーツメディアは、そうした方面にほとんど目を向けようとしていない。目を背けている気さえする。いい話をどこからか無理矢理見つけ出し、「○」を保とうとする。

「岡田サン対サッカー協会」にも対立軸は立派に潜んでいるだろうし、「岡田サン対犬飼会長」、「岡田サン対原サン」、「岡田サン対Jの各クラブ」等もない話ではない。

大袈裟に言えば対立軸は、日本サッカー界のあらゆる所に潜んでいる。文句や批判で溢れているはずだ。中には「負けちゃえばいいのに」と思っている人もいるかもしれないが、不平不満をグッとこらえ、日本サッカー界の発展を願い、南アワールドカップという本番に臨もうとしている。

やっぱり僕には、それが良いことにはとても思えない。もし、日本がグループリーグを突破したり、1勝2敗とか、1勝1敗1分けとか、惜しい敗戦を喫したら、いままでのやり方はすべて肯定されることになるだろう。だとすれば、日本はきちんと3敗した方が良いと言いたくなる。「負けちゃえばいいのに」とは思わないが、日本サッカー界の発展を願うならば、惜しい敗戦より、大敗の方が薬になる。これは事実だと言いたくなるぐらい、いまの日本サッカー界は歪んだ構造をしている。サッカー本来の楽しさを満喫できない環境にある。ワールドカップが近づいてきました。さあみんなで一緒に盛り上がりましょうと言っても盛り上がれない。まさに笛吹けど踊らずの状態にある。

会長の犬飼さんは、この事態を深刻に受け止めて欲しいものだ。こんなサッカー界に誰がした。日本サッカー界は、史上最大のピンチを迎えている。

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