セルビア戦後に行ったライブドアスポーツのネットリサーチ「岡田ジャパンこのままで良いと思う?」に対して、「良い」はわずか数パーセントにとどまった。

予想された結果ではある。だが、そう驚きを感じないところに異常さというか、事の重大性を感じさせる。一般のファンに、ここまで支持されていない代表チームも珍しいし、それに何も手を加えずに、ワールドカップ本大会に臨もうとしている協会も珍しい。ファンの無力感ここに極まれり、である。

だが、その一方で、インターネットのニュースサイトを眺めていると、奇妙なトピックスも目に飛び込む。

「澤登不満」。
「ラモス怒る」。

90数パーセントのファンが「良くない」と言っている中で、なぜこれがニュースになるのか。「澤登、岡田サンをヨイショ」なら分かる。「ラモス、岡田サンに同情」なら分かる。これならニュース性は高い。

いまの日本サッカー界にあって「批判」はもはや驚きに値しない。にもかかわらず、一方で、批判がニュースになる。ニュースを取捨選択する人が、世の中の空気をつかめていないからなのか。

この状況は、少数派でいることに存在感を見いだしてきた僕には、正直言って、居心地の良いモノではない。マイナーだった人間が突如、メジャーな舞台に立ってしまったような座りの悪さを感じる。

これまで不満を口にすることは、ネガティブだと言われた。「どうしてお前はいつも、ネガティブな原稿ばかり書くんだ」と、僕は各方面からお叱りを受けてきたわけだが、いまやヨイショこそがネガティブで、批判はポジティブになっている。常識は一変してしまった。少なくとも巷の間では。

にもかかわらず、一方では「澤登不満」「ラモス怒る」が、相変わらずニュースになる。これは、元選手や解説者が、いかに黙りを決め込んできたかの証と言うべきだろう。彼らが出演するテレビの報道を見ていると、怒りはまるで伝わってこない。9割以上のファンが「ノー」と言っている世論調査の結果との間には、著しいギャップがある。不自然きわまりない、超嘘臭い世界が広がっていることの方が、前にも述べた通り、岡田ジャパンの不出来より、僕には重大な問題に見える。

そんなことでいいんだろうか。膨れあがった不満を、大きなメディアほど、封じ込めようとしている。嘘を突き通そうと必死だ。だがもはや、蓋をすることはできない。臭いものは、世間にどんどん充満している。

その姿がまた哀れを誘っている。痛々しささえ覚える。日本サッカー界がと言うより、日本が心配になる。サッカーには向いていない。少なくとも、日本のメディアとサッカーとの相性は決して良好な関係にはない。

サッカーは野球に迫る人気スポーツ。ファンはそれなりにいる。日本代表の試合の視聴率だって、低くなったとは言え、15%以上はある。観戦チケットの売り上げも、一時より売り上げは落ちているものの、それでも他国に比べれば盛況だ。競技人口も少なくない。プロリーグも一応存在している。200億円に迫る協会の予算も、おそらく世界ダントツの1位だろう。1億2千7百万もの人口を誇る国が、それなりの体制でサッカーと向き合っている。日本代表は本来、もっと強くて良いはずなのだ。

にもかかわらず、0勝3敗の予想が多数を占める。原因は分かりやすい。足を引っ張っているモノが存在するからだ。日本の「サッカー偏差値」を下げている人が数多くいるからだ。こうしたサッカー競技に向いていない人が、数多くサッカーと関わってしまっている所に、日本の悲劇がある。これがなくならない限り、日本はサッカーに向いていない国から脱することはできないと思う。

日本で最もサッカー偏差値の高い集団は「選手」。他はむしろ足を引っ張る存在。僕にはそう見えて仕方がない。

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