前回に引き続いて、4月7日のセルビア戦を独自のデータから検証してみたい。

後半開始とともに、岡田監督は石川と玉田を投入した。前半と同じ4−2−3−1のシステムを維持しつつ、岡崎が1トップに入り、「3」は右から石川、中村、玉田となる。稲本と遠藤のダブルボランチは横並びでなく、稲本が守備に重心を置いたタテ関係が基本だ。最終ラインは右から徳永、中澤、阿部、長友となった。

前半との違いでまずあげられるのは、「3の右」に入った石川だ。彼は28本のパスを受けているが、味方につないだのは半分以下の12本だった。残る16本はドリブル、シュート、クロスにつなげている。二度の決定機を逃したのは物足りなさが残り、仕掛けからボールを失うシーンもあったが、彼の登場によってタテへの推進力が生まれたのは間違いない。

もっとも多くのパスが行き来したのは、中澤と徳永だった。中澤から徳永が8本で、徳永から中澤が7本である。右サイドにボールが集まったのは石川の投入によるものと考えられ、彼ら二人のパス交換がチーム内で突出して多いわけでもなかった。最終ラインのサイドで頻繁にボールが動くのは前半と同じだが、意味合いとしてはやや異なる。

変わらなかったのは1トップの孤立だ。中村から岡崎へのパスは1本で、遠藤からは1本も通っていない。岡崎にもっとも多くパスを出したのは、82分に退いた玉田だった。

海外組の不在などから連動性の欠如が指摘されたなかで、玉田と岡崎がそれなりの関係を築いたのは積み重ねの表れに他ならない。とはいえ、そこにどれほどの実効性があったのかは疑問だ。どちらもシュートは放っていない。このチームのコンセプトは、いまだにパスをつなぐところから先がぼんやりとしたままなのだ。付け加えれば、ここ最近の選手起用から判断すれば、彼らを同時に起用するのは優先順位の低いオプションである。

試合後の岡田監督は「メンバーが欠けたときには同じ戦いは難しい」と話したが、メンバーを固定してきたのは他ならぬ岡田監督だ。W杯出場決定後はチームの底上げが必要と語りながら、先発メンバーの成熟度アップを追求してきた。セルビアはなかなかの好チームだったが、それにしても0−3の完敗は看過できるものでない。これまでのチーム作りが招いた必然だった。

岡田監督の責任は間違いなく重い。だが、単なるボールまわしで終わってしまったことについては、選手も責任を問われるべきである。

ボールをまわすことがチームコンセプトだからと言って、スコアや時間帯を度外視してまでポゼッションをすることに、どれほどの意味があるのか。僕にはまったく理解できない。「リスクを冒していけ」と言われなければ、セーフティにプレーし続けてしまうのか。日本代表に選ばれるほどの選手でも、そこまで細かく指示されなければダメなのか。指示を待つだけでは、監督に操られたロボットだ。

日韓W杯のトルコ戦で、消化不良のまま敗れてしまった原因は何だったのか。ドイツW杯のオーストラリア戦で、なぜ逆転負けを許したのか。監督の采配に問題があったのは確かだろう。しかし、どちらの試合にも共通するのは、選手自身がピッチ上で判断し、打開策を見つけようとしなかったことだ。

セルビア戦も根本的な原因は同じである。コンセプトが有効でないと感じるなら、「こういうふうにやらせてくれ」と意見するぐらいの姿勢があっていい。意見をせずに実行してもいい。勝ちたいという気持ちの表れであれば、岡田監督だって了承するはずだ。日の丸を着けることへの誇りや責任は、そうした態度でこそ示されるものである。「本気でベスト4を目ざす」というのは、監督の指示に忠実であることではなく、ベスト4入りするために妥協や打算を排除することではないのか。

サポーターがブーイングを浴びせたのは、0−3で負けたことだけが理由ではなかったと思う。選手を戦わせることができなかった岡田監督への失望感と、ポゼッションという傘の下で戦うことを恐れた選手の消極性が、何よりも歯痒かったのだと僕は理解する。

戸塚啓コラム - サッカー日本代表を徹底解剖