前回コラムの本田圭佑の話題にも通じてくることだけど、今回は日本人のメンタリティについて考えてみたい。これはサッカーに限ったことではないのを初めに言っておくよ。
よく、日本人は主張しないと言われるけど、これは日本社会自体がそういう構造になっているからでもある。現在は多少なりとも変化しているとも言えるけど、体育会の徹底した上下関係、会社における年功序列の人間関係は、いまだに根深い。

主張しないのではなく、主張できない、主張しにくい社会になっているんだね。1年生は3年生に頭が上がらないし、たまにビッグマウスが出てくると浮いた存在になる。ピッチ上で井原のことを「井原!」と呼んだ中田英の姿勢は、当時驚きを持って迎えられた。

困ったことに、これはマスメディアにも当てはまる。政治的なしがらみ、つまり上下関係を考えて、おかしいものをおかしいと言えない空気が充満しているんだ。我慢していれば出世できるのだから、誰も出る杭になろうとしない。スポーツでは特に、この国に本来のジャーナリズムは存在しないと思っている。すべてが売れる売れないで判断され、事の本質を伝えようとしないんだ。

サッカー協会のやり方がおかしければ、解散総選挙を求める記事が出てきてもいい。しかし誰もやろうとしない。言い換えれば、本当の意味での民主主義ではないとも言えるね。情報は操作され、国民は自由に見えて実は自由じゃない。

これは紛れもない日本社会の文化だよね。もちろん、そのメリットもたくさんある。団結力があるし、一丸となって何かを作るのは他の国に比べてとても速い。文句を言いながらもがんばれる。これらが、日本をここまで裕福な国にした要因であるのは間違いないね。

ただ、そうした日本社会の中に、登場してきたサッカーという競技の存在は、そこに一石を投じるものだ。なぜなら、サッカーは世界に出ていくものだから。常に世界を意識して戦っていかなければならないものだからだ(他の競技も当然世界と戦うけれど、象徴的な意味でサッカーを例にあげさせてもらう)。
国内で野球をやっているだけでは考えなくてよかったことを、考えなければいけなくなった。世界と戦うには、主張をしなければいけない。主張しないと、我の強い世界の選手たちに勝てないんだ。

選手たちが意識を変えればいいという問題ではないよ。現場は一番権力がないし、ほっといても環境によって変わってくる。つまり日本社会、日本人個々が変化していけば、選手たちのメンタリティも変わっていくんだ。そうして初めて、日本はW杯で世界と伍して戦える国になる。W杯で上位を目指すっていうのは、そういうことだと思うよ。(了)