(これまでの 松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」はこちら

 前回取り上げたモノレールは、やはり多くの人が関心を抱いているようで、様々な反応を頂いた。その中にはいくつか内部告発的なものもあり、「某第三セクターモノレールでは、天下りの幹部が民間から来た部下の策定した増収策をことごとく却下した」だとか、別の第三セクターでは「毎日、出勤しては新聞だけ読んでいる天下り重役が部下のやる気を削いでいる」といった話が届いている。
 裏付けが取れないので固有名詞は出さないが、「やっぱりなあ」という印象だ。

 行政と経営は必要とされる才覚が異なる。才覚を必要とする職に、才覚を持っていない者を押し込んでも、事態は悪化するだけである。
 どの第三セクターモノレール会社も赤字に苦しんでいるのだから、さっさと天下りを追い出して民間から経営陣を迎え入れて増収を図るべきだろう。累積する赤字はやがて税金での補填を必要とするようになり、地域住民に迷惑をかけることになる。その責任の重さを考えれば、経営への天下りをやめることは地域行政機関の極めて重大な責務であるはずだ。

 今回は、モノレールと似たような状況にある新交通システムを取り上げることにする。前回、モノレールを「たそがれ未来」と形容したが、私としては新交通システムを「間違った未来」と呼称したい。

 新交通システムというのは、一般にコンクリート製の高架軌道の上をゴムタイヤを使用する軽量車両が走る交通システムだ。多くの場合、運行はコンピューター制御により無人化されている。
 当初は、従来型の鉄道に対して、それ以外の交通システムをまとめて新交通システムと総称していた。しかし現在では東京の東京臨海新交通臨海線こと「ゆりかもめ」、あるいは神戸の「ポートライナー」のようなコンクリート高架・ゴムタイヤ小型車両・場合によっては無人運転の交通システムを、一般に新交通システムと呼んでいる。

 ただし、その周辺には類似コンセプトの交通システムが多数存在する。例えば札幌市営地下鉄はゴムタイヤを採用しているが、車両サイズは既存の鉄道と同じだ。
 さすがに札幌の地下鉄を新交通システムとはいわないが、2005年日本国際博覧会「愛・地球博」で、会場へのアクセスの足として建設された愛知高速交通東部丘陵線「リニモ」のような磁気浮上のリニアモーターカーは、新交通システムの範ちゅうに入れることが多い。

 新交通システムの特徴は、建設費が安いことと、車体が小さく軽い上にゴムタイヤを使っているため、鉄道よりも急カーブと急勾配に強いこと、そして無人運転による経費節減が期待できることである。ゴムタイヤを使うことによる低騒音や、乗り心地の良さも期待できる。
 1kmあたりの建設費は、地下鉄が200〜300億円かかるのに対して、新交通システムは100億円前後で済む。ただし、甦る路面電車で取り上げた新世代の路面電車は20〜30億円で作れるので、費用対効果を考え、どの方式を採用するかは都市計画も含めてよほど深く検討しなくてはならない。

 その一方で、新交通システムにはモノレールと同じく、既存鉄道との相互乗り入れによるネットワーク化ができないという大きな欠点が存在する。従って、路線の敷設にあたっては、乗換駅における人の流れを最短でかつ上下移動が少なくて済むように配慮しなくてはならない。

 日本における新交通システムの研究は1970年代から始まっている。私が最初に新交通システムの存在を知ったのは1972年、小学5年生の時だった。校内の掲示板に貼ってあった写真新聞に、「コンピューターが無人で運転する電車」が掲載されていたのである。この新しい電車はVONA(ボナ)という名前だった。私はたちまちにしてボナに熱中し、小さな模型を作って遊んだ。
 ボナ(VONA):Vehilce Of New Ageは、日本車輌と三井物産が開発した新交通システムだ。1970年代に開発され、現在は千葉県のユーカリが丘線で使用されている。私が1972年に写真新聞で見たのは、コンセプト発表段階の模型だったのだろう。

 日本初の新交通システムは、1975年に沖縄で開催された沖縄交際海洋博覧会の会場で観客の輸送用に使われたKRTだ。神戸製鋼所が開発したシステムを使用していた。
 博覧会の一時的なシステムではない恒久的な新交通システムは、1981年に神戸のポートアイランドで開業した。神戸新交通ポートアイランド線「ポートライナー」だ。
 その後、1983年に建設省と運輸省が共同で「標準型新交通システム」として統一規格を作成し、建設に補助金を付けたことから、全国で新交通システムの建設が始まった。2010年3月現在、東京の「ゆりかもめ」、神戸の「ポートライナー」、大阪の南港ポートタウン線「ニュートラム」など全国で11路線が運行している。

 が、本当に新交通システムは、有意義な交通システムとして役立っているのだろうか。

 私が初めて新交通システムに乗ったのは1989年、神戸のポートライナーだった。乗った途端に、「なにかが違う」と感じた。これが未来か。かつて小学校5年生の自分が熱中した未来の乗り物か。
 いや、どうしても私には未来とは感じられなかった。

 私は小さな車体が風のように走ることを期待していたが、実際には速度が遅かった。乗り心地も事前の想像ほどではなかった。ごつごつとしており、「絹の走行感覚」にはほど遠かった。
 私には、ポートライナーとよく似た感覚の乗り物に乗った経験があった。軽便鉄道だ。線路の幅が、610mm(2フィート)や、762mm(2フィート6インチ)の小さな列車である。敷設費用は通常の鉄道より安いが、速度は遅くて輸送能力も低い。「ひょっとして、都市に結構な投資をして、結局のところできたのは事実上の軽便鉄道なのでははいだろうか」という疑念が巻き起こった。

 疑念が確信に変わったのは、1995年11月、東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」が開通した時だった。早速乗りに行った私が発見したのは、すべてに渡って「使いにくい」としか形容しようのない交通システムだった。

 そもそも「ゆりかもめ」は、1996年開催予定の世界都市博覧会(通称「都市博」)へのアクセス路線となる予定だった。博覧会には多数の人が集まるので、アクセス路線にはなによりも輸送キャパシティが必要である。また、東京都にとって都市博は、湾岸の新都心地域を整備するための投資を実施する口実でもあった。新都心地域を作るならば、現在の都心地域と新たに開発する地域の間に、人員移動のための大動脈を通さなければならないはずだ。

 しかし、ゆりかもめは大動脈というには細すぎた。輸送能力がお話にならないほど小さすぎた。
 都市博は、バブル経済を背景に積極的な都市開発を進めた鈴木俊一都知事の構想だった。バブル経済崩壊と共に都の財政は悪化し、鈴木都政を打倒した青島幸男新都知事は1995年、都市博開催を中止した。
 しかし、ゆりかもめの輸送能力の低さは、そのまま残ってしまったのである。

 ゆりかもめの輸送能力の低さの影響を最初に受けたのは、東京国際展示場(東京ビッグサイト:1996年4月開場)でのイベントの来場者だった。1996年3月には、通常の鉄道である臨海副都心線(りんかい線)の新木場-東京テレポート間が開通しており、千葉の臨海方面からのアクセスが可能になっていた。しかし、人の移動が一番多い肝心の東京都心方面からのアクセスはゆりかもめが頼りだった。
 この状態は2002年12月にりんかい線が大崎まで延伸し、JR東日本の埼京線と相互乗り入れをするまで続いた。輸送能力の大きい埼京線との相互乗り入れにより、東京ビッグサイトの利便性は格段に向上した。私は初めて埼京線経由で東京ビッグサイトに行った時、そのあまりの便利さに驚き、「最初っからこうしろよ」と思わず毒づいたものである。

 ゆりかもめに不満を持ったのは、東京ビッグサイトのイベント参加者だけではなかった。都の臨海副都心計画により、ゆりかもめのお台場駅から青海駅周辺にはオフィス区画が整備され、お台場のフジテレビを初めとした大企業が移転した。そこに務める者にとっても、ゆりかもめは怨嗟の対象となった。
 彼らは口々に「混んでいて遅い」とゆりかもめを罵った。彼らビジネスユーザーが特に怒ったのは芝浦ふ頭駅とお台場海浜公園駅の間、レインボーブリッジを渡る手前にあるループだった。朝の一分一秒でも惜しい時に、ゆりかもめはゆうゆうとループを回って走る。「あそこがループでなければ、朝の1分間が節約できるのに」──私の友人の何人かはお台場駅やテレコムセンター駅に通勤していたが、その誰もがループに怒りをぶつけた。「東京観光には良いかもしれないが、通勤用にはループなど不要。建設費にかかった税金を返せ」というのが彼ら、通勤にゆりかもめを利用せざるを得なくなった者たちの一致した意見だった。

 その一方で、経営的にゆりかもめは成功した。毎年利益を出し、利益剰余金まで積み立てている。しかしそれは新交通システムだからではなく、「日本の首都である東京の、都心と臨海副都心を結ぶ」という堅い旅客需要が存在するところを走っているからだ。その利益は、定常的な混雑という利用者の迷惑の上に成立していると言っても過言ではない。
 なにをどう考えても、臨海副都心には通常の鉄道を複数路線乗り入れるべきであり、ゆりかもめのような新交通システムを導入するべきではなかった──私にはそうとしか思えない。ゆりかもめを建設するぐらいなら、りんかい線を品川に乗り入れさせ、山手線の東半分からの旅客輸送にも対応させるべきではなかったかと思えるのである。

 ゆりかもめの路線を見るに、新橋から汐留にかけてのきびしい屈曲に対応するには、新交通システムしかなかったとも言える。しかしその場合にも、ゴムタイヤを使う現行の方式ではなく、愛知高速交通東部丘陵線「リニモ」のようなリニアモーターカーを導入すべきだったのではないかという疑念は残る。
 リニモは、1970年代から日本航空が空港アクセス用に研究開発を行ってきた超伝導磁石を使わないリニアモータカーHSSTにルーツを持つ。現行ゆりかもめの最高速度は60km/hだが、リニモは100km/hまで出すことが可能で、登坂能力も高い。おそらくレインボーブリッジをループなしで楽々登ることができるだろう。また、ゆりかもめ7000形の車両は6両編成で乗車定員が352名だが、リニモは3両編成で定員244人だ。6両編成にすればほぼ500人である。

 リニアモーターカーは、消費電力が既存の車輪による交通システムよりも大きい。しかし、開発者の側は路線と非接触なのでメンテナンスコストが下がり、トータルで見ると有利、と主張している。私は、実際のところは具体的に精査しなければならないものの、この主張には理屈が通っていると思う。
 リニモは1992年まで、名古屋湾岸地区の大江に建設した大江実験線による走行試験を行っていたので、ゆりかもめには間に合わなかったのかも知れない。それ以前からHSSTは相当な技術開発を行っていたので、例えばりんかい線品川乗り入れを先行させて、ゆりかもめ建設を遅らせていれば──などなど、このあたりは「もしも」の仮定が沢山入るのだが、妄想は拡がるのである。

 では一体、新交通システムはどこに使うと最適なものだったのだろうか。

 私はその答えを、全国で2つだけの、民間企業が運営する新交通システムに見る。山万が運営するユーカリが丘線と、西武が運営するレオライナー山口線だ。

 山万は千葉の不動産デベロッパーだ。1980年代初頭から、千葉県内でユーカリが丘という大規模な宅地開発を行っている。ユーカリが丘線は、山万が開発した宅地と、通勤・通学の足である京成電鉄本線のユーカリが丘を結ぶ、全長4.1kmの小規模な新交通システムだ。車両は3両編成でワンマン運転。システムは、まさに小学5年生の私が熱中した日本車輌/三井物産のボナである。1982年11月に開業して以来、27年以上維持運営され続けている。
 西武山口線は、西武電鉄・西武新宿線の西武遊園地駅と西武池袋線の西武球場駅を結ぶ、2.8kmのこれまた小規模な路線だ。システムはボナでも国のお墨付きの標準型新交通システムでもない独自のもの。1985年の開業以来、現在まで25年に渡って運行されている。

 まず、共に堅い旅客需要が存在するという特徴を持つ。ユーカリが丘線はユーカリが丘の住人の通勤・通学のための路線だし、山口線は西武球場と西武遊園地という娯楽施設への旅客需要を満たすためのものだ。両方とも赤字が累積すれば廃止になる民営路線でありながら、長年にわたって運行を維持している。

 そしてなによりも私が注目するのは、山口線がかつては「おとぎ線」という名称の軌間762mmの軽便鉄道であったという事実である。1950年代以降、西武はこの地でユネスコ村という遊園地を経営しており、おとぎ線はアトラクション兼用のアクセス路線として、小さな蒸気機関車が走っていたのだった。
 つまり、新交通システムは本来、郊外ニュータウンと通勤幹線駅を結ぶ、あるいは幹線の駅と遊戯施設を結ぶといった、まさに「現代の軽便鉄道」としての役割に向いたシステムだったということなのではないだろうか。

 実際、1970年代初頭にボナなどが構想された当時、期待された役割は「ニュータウンと幹線駅を結ぶ」という役割だった。当時、都市部の人口増加に対応し、大都市郊外では大規模な宅地造成が進んでいた。そんな地域と幹線鉄道の駅を結ぶバス代わりの足として、新交通システムは構想されたのである。
 ニュータウンの多くは郊外の丘陵地域に造成されたから登坂能力が必要、また住宅地を縫うようにして走るから静かでなくてはならない。周辺住人しか使用しないから輸送キャパシティはほどほどでいい。だからこその小振りの軽い車体とゴムタイヤだったのである。

 それがいつからか「鉄道を敷設する土地の余裕がない都市部における、中規模輸送システム」となってしまったのが、新交通システムの不幸だったのではないだろうか。

(この項続く)