バンクーバー冬季五輪が近づいてきた。メディアは前景気を煽ろうと、メダル候補を大量に発生させるのがいつものパターンだ。

 五輪競技に詳しい一般人は、世の中にそう多くない。情報もサッカーのように溢れているわけではないので、それを素直に受け入れる可能性が高い。ワールドカップ観戦に臨むサッカーファンより、スレていないわけだ。で、メダル候補がメダルを逃せば、「ベスト4」でも落胆することになる。

 3位と4位との間に、天と地ほどの開きがあるのが五輪。3位決定戦がエキシビションマッチに見える(と言っても言い過ぎではない)ワールドカップとの大きな違いだ。僕の性には、断然ワールドカップの方が合っているのだが、そうした視点で五輪を眺めると、4位の選手がとても気の毒に見える。

 メダル候補と一口に言っても内訳は様々。バリバリの金メダル候補もいれば、銅メダル候補もいる。メダル候補に無理やり祭り上げられる選手もいる。5、6位が妥当な選手もメダル候補に含まれる。称賛に値する4位、惜しい4位もあるわけだ。しかし、メダルか否かがすべての五輪報道では、その辺りの事情は無視される。お茶の間のファンには、大健闘が大健闘に映らない可能性がある。

 それを嘆く人さえ出てくる。気合いが足りないとか、精神力が弱いとか、根拠のない理由を口にする人もいる。困ったことに、メディア側にもこの手の人が現れる。勝手に持ち上げておいて、メダルを逃すと小言を言う。ワイドショーのコメンテーターによく見受けられる傾向だ。

 しかし、忘れてはいけないのが、五輪に出場する選手の多くが、プレイすることによって特別の報酬を得ていないアマチュアだということだ。テレビ局や大新聞、一流出版社の社員のサラリーを大きく下回る金額しか得ていない選手が大半を占めている。

 観戦チケット代を払って、スタジアムに足を運ぶファンも数少ない。毎年、札幌の大倉山で行われるジャンプのW杯に詰めかける観衆はごくわずか。スタンドはいつもガラガラだ。大観衆の中で行われるヨーロッパで行われるW杯のような盛り上がりはない。スタンドが観客で埋まるのは、冬季ではフィギュアスケートぐらいではないか。

 夏季五輪の競技である陸上や競泳も、スタンドにやって来る観戦者は数少ない。日本選手権でも、関係者プラス家族ばかりが目に付く。普段から、陸上競技ファン、水泳ファンでいる人はどれほどいるだろうか。

 長年、熱烈なファンを貫いている人なら、小言を言う権利はあるのかもしれない。待遇の悪いアマチュア選手に対しても、その不成績を嘆くことは許されるかもしれない。しかし、にわかの五輪ファンはそうはいかない。そこに多少の税金がつぎ込まれているからといって、威張ることはできない。それは人の趣味にケチをつけているようなものだ。

 華やかに見える五輪選手も、普段は考えられないほど慎ましい生活をしているのだ。彼らの競技生活をサポートしているのは主に企業。市民性は著しく低い。野球やサッカーとは根本的に違う。

 とはいえ、サッカーの日本代表も、代表選手は微々たる報酬しか得ていない。拘束費を時給にすれば千円以下。代表としての活動は、ボランティア同然の待遇だ。彼らにギャラを払っているのは所属クラブ。彼らの選手としての活動を、サッカー協会がバックアップしているわけではない。さらに言えば、協会は、彼らが代表チームの活動に参加している間、所属クラブでレギュラーを外れても責任を持つわけでもない。カターニャの森本貴幸が、日本にあまり戻ってきたくなさそうな(?)感じなのも、当然の話になる。

 選手は弱者だ。五輪に出場するアマチュア選手と共通する面がある。

 片や代表監督は、れっきとした「仕事」だ。年俸1億円以上で協会と契約している。したがって、代表チームについて意見する場合は、おのずと代表監督に矛先が向く。次に協会。立場が弱い選手はいちばん最後になる。

 だが、日本のサッカー界は、強者(代表監督)が弱者(選手)の頑張り不足を平気で口にする。大健闘した4位の選手を、称賛できにくい体質にある五輪といい、サッカー界といい、僕は日本のスポーツ界を取り巻く常識が、あまり好きにはなれない。

 弱いモノいじめはやめましょう。バンクーバー五輪を前に、僕は一言、そう言っておきたい。

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