沖縄県石川市(現・うるま市)出身の元日本フライ級王者・ピューマ渡久地。興南高校卒業後、日本大学農獣医学部に進学するが、ボクシングに専念するため中退する。
 鬼塚勝也、辰吉丈一郎とともに『平成の三羽ガラス』と呼ばれ、90年前半の日本ボクシング界をリードしてきた。戦型は右のファイタータイプ。

 高校入学と同時にボクシングを開始。金城真吉監督の元、メキメキ頭角を現し、87年のインターハイで準優勝(フライ級)。同年開かれた沖縄・海邦国体では沖縄代表としてチームの優勝に貢献した。
 アマチュア時代の戦績は58戦53勝5敗。まさに驚異的な実績を持ち「今すぐプロに転向しても日本のトップレベル」と関係者もその素質の高さを評価していた。
 88年5月、プロデビュー。パワフルなボクシングを持ち味とし、全日本新人王(MVP)、A級トーナメント優勝(MVP)、日本プロスポーツ大賞・内閣総理大臣新人賞…など、あらゆるタイトルを獲得。賞を総なめした。
 尚、東日本新人王トーナメント決勝では、後のWBC世界フライ級王者・川島郭志を6回TKOで撃破した。
 「この試合は圧倒的に川島有利と言われていました。前年の高校インターハイで川島が渡久地に完勝しており、その差は縮まっていないと目されていたからです」と、当時取材したスポーツ紙記者は語る。
 90年3月、実に10戦目で渡久地はフライ級日本王座戦にチャレンジし、見事KO勝ち。続く8月に行われた初防衛戦もKO勝利で、デビューからの連続KO勝利を日本歴代3位になる11に伸ばす偉業を成し遂げたのだ。

 渡久地のボクシング人生はまさに順風満帆であったように思えたが90年11月、2度目の防衛を終えた後に一転する。
 「3度目の防衛戦が91年3月に行われる予定だったのでしたが、その直前に失踪したのです。当然、日本王者ははく奪され、JBCから無期限のライセンス停止処分を受けたのです」と、前出・スポーツ紙記者。
 当時、売り出し中であった勇利アルバチャコフ(当時はチャコフ・ユーリ)との対戦はファンならずとも注目の1戦であっただけに渡久地の失踪には衝撃が走った。
 「失踪理由は所属ジムとの金銭トラブル…スパーリング中に相手と喧嘩になり骨折した…などと言われていますが真相は不明。有力なのは躁鬱説ですが、これも決め手に欠けているのです」(前出・スポーツ紙記者)

 無期限のライセンス停止から2年半、93年4月ついに復帰する。初戦の相手は元WBAフライ級世界王者で現役世界ランカー、へスス・ロハス(ベネズエラ)だった。
 さすがにブランクが響き往年のキレを失った渡久地は9回TKOでプロ初黒星を喫し、8月に行われた2戦目も敗北する。
 それでも渡久地は拳を交わし続け、95年1月23日、復帰5戦目で日本フライ級王者・岡田明広と対戦。日本王座戦に挑み、10回判定で勝利。約4年ぶりに王者へ返り咲いた。
 96年8月26日、両国国技館で“因縁の”WBC世界王者・勇利アルバチョフと世界戦に挑む。これが渡久地にとって初の世界戦であったが9回TKOで撃沈。世界の壁を痛感した渡久地だが、JBCはこの試合が高レベルであったと評価。96年の年間最高試合として選出した。
 その後、日本王者を返上し勇利の所属する『協栄ジム』に移籍するなど、試合よりも“お騒がせネタ”を提供してきた渡久地。関係者が語る。
 「彼は『協栄』に移籍後5連勝し、WBA世界スーパーフライ級王者・飯田覚士と世界戦が決定(98年12月)していたのですが脳梗塞の疑いが判明。試合が中止になったのです。結局、この診断は事実ではなかったのですが、これで選手生命が終わったのです」
 99年10月に再度復帰するが、もはや渡久地に気力は無かった。3回TKOで完敗…引退を決意し、表明した。

 私生活では93年8月5日に生田聡美と入籍。2女1男の父。東京・東麻布に『ピューマ渡久地ボクシングジム』を設立し初代会長に就任。現在は名誉会長として後進の指導に力を注いでいる。
 07年度、東日本ボクシング協会理事を歴任。
 ※プロ通算成績は23勝(19KO)4敗。

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