″マスメディア崩壊の天王山。ばしっと投資して攻めてもらいたい″ - 佐々木俊尚さん

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--無料プロバイダのライブドアがサービスをスタートしたときは、佐々木さんは『月刊アスキー』にいらした時代ですか?

佐々木 ちょうど99年の10月に毎日新聞から月刊アスキーの編集部に移ったので、無料プロバイダのライブドアのサービスが11月からスタートしたということは、ちょうどそのタイミングでしたね。ライブドアがいたるところでキャンペーンをやっていたのは、ものすごく印象に残ってます。渋谷駅前の看板とか、アスキーの雑誌にも出していたんじゃないかな。
 無料のプロバイダに関していえば、ライブドアが出てくる前に板倉さんがやっていたハイパーネットが失敗した事件があって、なかなかしんどい目を見たことはあったけれど、そこから3、4年で回線コストが急激に安くなり、ネットに広告が入るようになってきていました。当初ネット広告といえば、どのサイト見てもIBMのエンタープライズサーバーのバナー広告というときもありました。まだ黎明期だったんですね。ブロードバンドもそうで、2000年に東京めたりっく通信がADSLの提供を開始し、アスキーみたいなエッジの効いた会社にいる人たちは、結構申し込んでいたようです。でも本当にそういう動きはごく一部で、ダイヤルアップの無料モデルがなくなるという印象はなかったから、成功するんじゃないかな、という見立ては編集部内にもありました。
 最初に堀江さんに会ったときは、2002年で、まだオン・ザ・エッヂ時代でした。当時渋谷にあった会社にお伺いしたら、広報の方がやる気のなさそうな顔をしていて。堀江さんを待っている間に雑談していたら、「私、早くこの会社辞めたいんですよ」と。なんて適当な会社なんだ、という印象でした(笑)。
 取材したのは、実はアスキー時代から他でも原稿書き始めていまして、知り合いの編集者から「『2003年のキーマン10人』特集をやるんで、だれかITでいない?」って聞かれたんですよ。それで堀江さんがいいかなと思って取材したのが最初です。当時オン・ザ・エッヂは、企業買収を始めていた頃で、2000年に上場して調達したお金を、ネットバブルが崩壊して立ち行かなくなった小さいベンチャーを買いあさる資金にしていた。他にもGMOや楽天、サイバージェントもそうでしたが、みんなが草刈場のようにあちこちのベンチャーを買いまくっていた時代です。それがおもしろい動きだと思って、2003年のキーマンとして取り上げられればと考えたんです。

--オン・ザ・エッヂが無料プロバイダのライブドアを買ったのが2002年10月ですからね。

佐々木 当時、堀江さんがライブドアを買収した、っていうのはなるほどな、という感じだったんですよ。その直後に取材する機会があったんですが、彼が説明していたのは、「無料プロバイダのライブドアは何億もの金を投資してマーケティングやっていたから、ものすごい知名度がある、それに無料プロバイダのビジネスそのものは、スリムにすれば十分黒字になりますよ」と。
 この時期、ネットが普及してサーバや回線コストが大幅に安くなった時期だったので、民事再生スキームで、過去のリース契約を破棄して、社員もほとんど解雇、もしくはオン・ザ・エッヂの給与体系で再雇用する形をとることで劇的にコストが下がるから、低い損益分岐点で十分儲かる、と話していました。なるほどとは思いましたが、まさか社名までライブドアに変えるとは思っていませんでした。
 でも、言われてみれば確かに、知名度をブランドとして生かすために、社名を変更するのは非常にロジカルだな、と思う一方、それまでの企業経営者は会社や社名に対する愛着が強かったわけで、堀江さんみたいな発想をする経営者は新鮮でした。

--初期からIT業界をウォッチしてこられた佐々木さんから見て、ライブドアはどのような役割を担ってきたと思われますか?

佐々木 時代状況的にいうと、90年代に成功したのがヤフーなんです。いまだに最大手で売上規模もものすごく大きいんですけど、時代の最先端を切り開いていたヤフーのイメージが続いたのは、実は2004〜5年くらいまでです。その頃まではポータルサイトを作るというのが、最大のテーマでした。楽天も今はショッピングサイトしかやっていないけれど、当時はショッピング以外にも、さまざまなコンテンツやサービスを取りそろえたポータル志向みたいなものががあった。実はGMOもそっちの方向に行こうとしていました。熊谷さん(GMOインターネット(株)代表取締役会長兼社長)も、「バックヤードの仕事だけをやってたんじゃだめだ。単なる接続サービスではなくて、これからはコンシューマ向けに多面展開するんだ」と言っていた。とにかくポータルサイトがすべて、という時代だったんです。
 これを僕は「ポータル戦争」と名づけたんですが、そのなかでライブドアは、ある種風雲児的な存在でした。ポータル戦争に勝つためには、コンテンツとサービスをとにかくたくさん揃えるしかない。そのために他社を買いあさる、というのがその当時としては正しい戦略だったわけです。
 それともうひとつはトラフィックを増やすということでした。ヤフーとライブドアのトラフィックの開きは10倍くらいありましたからね。その差を埋めるために、マスメディアからのトラフィック流入を仕掛けた。いわゆるフジサンケイグループの買収劇に突き進んだり、プロ野球に行こうとしたのも、トラフィックを増やすという目的のためでした。2004年〜5年でライブドアが世の中を騒がせたのは、すべてポータル戦争と考えると理にかなった戦略だったんです。今となっては「ポータル? なんじゃそりゃ」って感じになっちゃってますけどね。
 ただ、一方で、当時僕が気がついてなかったのはライブドアの技術力のベースが実はものすごく高いということです。元取締役だった山崎さん(現 (株)ゼロスタートコミュニケーションズ代表取締役)と知り合って、彼が率いていた、バックヤード部分を支えていた「データホテル」の技術力のすごさを知りました。ライブドアブログは、あれだけ急激に会員数を増やしても、まったくといっていいほどサーバが落ちませんでしたからね。ライブドアの知名度が上がったときとブログサービスをはじめて会員が増加していった時期が丁度重なった。あれだけ注目を集めて急増したトラフィックをさばける技術力は相当のものです。そのおかげでライブドアブログは突出して急成長していきました。ライブドアの技術力のすごさは、もっと世間に認知されているべきだったんじゃないかな、と思います。逆に言うと、それが全く世間に知られていなかったが故に、2006年の事件が起きた後に、虚業だとか、散々言われるようになってしまった。

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