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近藤正高「板東英二、その副業人生」

担当者より:近藤正高さんは、テレビ史、広告、建築、戦後政治、新幹線、オリンピックや万博といったビッグイベントなど多岐にわたる分野に関心を寄せるライターです。著書に『私鉄探検』(ソフトバンク新書)があります。サブカルチャーにも明るい方で、この原稿では目下ブレイク中の板東英二について論じていただきました。


配信日:2009/09/02


あなたは、深夜に電話で友人から延々と板東英二のものまねをされた経験があるだろうか。私はある。板東英二の声は特徴があるせいか、私の友人もふくめ素人にも比較的まねしやすいようだ。タレントでも板東のものまねをレパートリーにしている者は多いが(松村邦洋とか)、ここへ来て松竹芸能の芸人・かみじょうたけしが、似ているだけでなく、これまでにないパターンで板東のものまねを披露し一部で人気を博している。板東本人もかみじょうをいたく気に入って、二人でテレビ番組『爆笑レッドカーペット』に出演するべく目下、ネタを練習中だとか(『サンスポ』2009年7月3日)。

そもそもいま、当の板東自身が人生何度目かのブレイクを迎えている。そのブログ「ブレイクしたいねんっ!!」というタイトルに込めた願いがかなったのか、いまや板東をテレビで見ない日はないほどだ。

私の出身地で現住所である愛知は、もともと板東の古巣・中日ドラゴンズの本拠地であるため、昔からよく地元テレビ局のローカル番組で彼の姿を見かけた。なかでも中部日本放送(CBC)の『そこ知り板東リサーチ』は10年続く長寿番組で、板東ほかタレント2人が東海三県(愛知・岐阜・三重)の各地に赴いては、地元の人たちと交流したりご当地グルメの紹介などをしている。

この4月からは、オールロケ、しかも生放送の『ひるおび!バンバンバン』という番組も始まった。金曜昼のこの番組で板東は、さまざまな場所に出かけては、激流を下ったり山を登ったり、はたまた漁師と一緒に魚を獲るなど『そこ知り』以上に体を張ったレポートを行なっている。私はてっきり、これも東海地区限定の番組だと思っていたのだが、調べてみると制作は大阪の毎日放送、しかもTBS系列で全国各地にネットされていた。


それにしても、1940年生まれで今年69歳(麻生太郎と同い年!)となった彼が、どうしてここまで体を張り続けているのだろうか。本来なら、レポートは若手に任せて、スタジオでふんぞりかえってエラソーにコメントしていてもおかしくはないと思うのだが。その答えの一つは、これまた今回のブレイクでよく知られるようになった、彼のゆで卵好きに隠されているようだ。

板東のゆで卵好きはなにも最近に始まったことではない。20年以上前の雑誌のインタビュー(『週刊サンケイ』1986年10月2日号)をひもとくとすでに、新幹線に乗るときにはまずゆで卵を買うと発言している。さらにこの嗜好は少年期にまでさかのぼるという。

板東にとって卵は、少年時代の体験と分かちがたく結びついていた。旧満州で生まれた彼は、太平洋戦争末期のソ連軍の侵攻、そして敗戦の混乱のなか、母親(父は現地で召集され不在だった)と兄弟たちとともに命からがら引き揚げ、父の故郷である徳島県板東町(現・鳴門市)の引揚者寮で新たな生活を始めた。

ちなみにこの寮はもともとは第一次大戦末期のドイツ兵の捕虜収容所で、ベートーベンの「第九」の日本初演が行なわれたことで有名だ(余談ながら同収容所を舞台にした映画『バルトの楽園』で板東は収容所所長を演じている)。

それはともかく、引揚寮の住民たちはヒエやアワ、麦飯しか食べられないほど貧しかった。板東が銀シャリ(白米)を食べたのは、じつに中日ドラゴンズに入団してから。板東少年は少しでも空腹をしのぐため、川でウナギやエビ、カニを獲るばかりでなく、ときには夜中に鶏小屋に忍び込み、卵を盗むこともあったという。

そんな少年時代をすごした板東にとって、銀シャリと、そして卵を不自由なく食べられることこそ豊かな暮らしの指標となった。そして、二度と貧乏に戻りたくないという思いが、70歳を目前にしたいまでも彼に「ブレイクしたいねんっ!!」と仕事に駆り立てているのだ。これはちょっと彼より下の世代にはない感覚である。


こうした思いはまた、彼がこれまでにさまざまな副業を手がけるにあたり最大の動機づけにもなってきた。

1959年、徳島商業高校から中日ドラゴンズに投手として入団した板東は、まもなくして芦屋の旅館(ドラゴンズの寮という説もある)の近くで老夫婦の経営していた牛乳屋を契約金から270万円を支払って買い取っている。経営は他人にまかせていたようだが、みずから牛乳配達を行なうなど、まぎれもなく彼にとって最初の副業だった。

ここにはプロ入りしてすぐに、身の程を思い知ったということもあったようだ。自分よりはるかに体が大きく能力もある選手がたくさんいる球界で、一生野球を続けていられるわけがない──早くもそう悟った板東は引退後を見越して、ほかの商売の基礎をつくっておこうと考えたのである。

その後も彼は副業に精を出すことになる。牛乳配達も続けつつ、ジュークボックスの販売、マッサージ、株取引、ビルオーナーとして会員制サウナにはじまりクラブ、雀荘、割烹を営業するなど、とにかくあらゆるものに手を出した。ビルの落成式当日は、広島での遠征試合に参加する予定だったが、仮病を使って休んだという逸話も残っている。

プロ野球選手としては、入団当初よりすでに肘に損傷を抱え、長いイニングを投げるのは難しくなっていたが、1965年から当時のドラゴンズの投手コーチの近藤貞雄(のち監督)の指示で、試合終盤の抑えにまわるようになる。それまで投手は先発完投するのが当然だったが、このころよりようやく日本球界にも導入され始めた「投手分業制」により、板東はいわゆるリリーフピッチャーの先駆けとなったのだ。

こうして選手寿命を延ばした板東も、1969年に球団の意向から「任意引退」に追いこまれる。しかしここから、おおよそ元プロ野球選手という域を越えた活動を展開するようになるのだから、人生はわからない。


引退の翌年にCBC専属の野球解説者になったのは常道ではあったが、歯に衣着せぬ彼の物言いはなにかと物議をかもし、1980年のシーズン途中に解任されている。その理由は、当時のジャイアンツ監督・長嶋茂雄のサインを放送中にことこまかに説明して、抗議が殺到したためだとも、「巨人と中日は優勝できない」という発言が中日球団の逆鱗を買ったからだともいわれる。

それでもなお彼はフリーランスの立場で、放送のみならずスポーツ紙や『プロ野球知らなきゃ損する』(青春出版社、1984年)などの著作を通じて評論活動を継続した。

1971年にやはりCBCでラジオ番組『ばつぐんジョッキー』のパーソナリティを務めたことに始まる芸能活動についてくわしくはここでは省くが、同番組から生まれたドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!」を歌手としてレコーディングし、約40万枚のヒットとなったり(1974年)、一時期やっていた野球漫談などが認められ「日本放送演芸大賞」の最優秀ホープ賞を獲得(1984年)、俳優としても、高倉健と共演した映画『あ・うん』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している(1990年)。

芸能活動以外では、1977年の参院選の際に自民党から愛知地区からの出馬要請を受けたこともあった(事前調査では40〜57万票は固いとの結果が出たという)。だが、かなり話を進めた段階で妻や娘から猛反対を受け(とりわけ、「パパのポスターが町中に貼られたら恥ずかしくて学校に行けない」と娘が泣いて反対したのが、子煩悩の板東にはこたえたらしい)、公示日の前日になって立候補しないと自民党に伝えたという。

さらに板東は作家としての顔も持ち、1998年にはみずからの引き揚げ体験をもとにした自伝小説『赤い手』を、翌年にはその第2部である『赤い手 運命の岐路』を立て続けに上梓した(青山出版社刊)。

作詞家で直木賞作家のなかにし礼も、やはり少年期の引き揚げ体験から『赤い月』というよく似たタイトルの小説を2001年に発表しているが、板東のほうが早かったことになる。そもそも板東はすでに1986年頃から『赤い手』の構想を語っており、ゴーストライターを使わず自分で書いていることを証明するためにも直木賞にノミネートされたいとまでうそぶいていた。


……と、これだけ多岐にわたる活動をしながら、それでも自分の本業は野球解説だという意識が板東には常にあったようだ。だが、それで飯を喰っていく気はないとも語っている。金をもらって解説をすればどうしても妥協する部分が出てくる。だったら生活費は副業で稼ぎ、解説では誰に媚びることなく好き放題言わせてもらう、というのが彼のスタンスであった。

ともあれ、本業では金をもらわないというのはおもしろい。これは裏返していえば、純粋に金を儲けるために行なう副業ならばいくらでも媚びるし、なんでもやる、ということではないか。そう考えると、野球解説以外の芸能活動も板東にとってはすべて副業であり、だからこそ若手芸人ばりに体を張ることもいとわないのだともいえそうである。

唐突ながら、この不況下にあって、ワークシェアリングが政府や各企業などで真剣に検討されている。これが定着すれば、雇用は増えるかもしれないが、一人あたりの労働時間と賃金は減る。そうなったとき、これまでの生活レベルを維持するため副業に手を染める人もたくさん出てくるはずだ。

となれば、また板東英二の出番だろう。いかに本業のかたわらうまく副業で稼ぐか、彼ならきっとみずからの体験を交えてとうとうと語ってくれるに違いない。「投手分業制」の導入により日本プロ野球にエポックをつくった板東が、今度は「労働の分業制」によってふたたびブレイクする──近い将来、そんな日がやってくるかもしれない。


●近藤正高(こんどう・まさたか)
ライター。著書に『私鉄探検』がある。
ブログ:Culture Vulture

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