2007年、NHK福岡放送局制作のテレビ番組「福岡にんげん交差点」で横山(現・西川)樹理のいまが放送された。そこで樹理は「ママさんバレーをやっていることを知られましたが、そのお陰でママさんバレーをやっている多くの人々との交流が生まれました」と語っていた。



 樹理がバレーボールを始めた中学生の時、顧問から「豪快なスパイクで相手を威圧するくらいの心構えが必要。そして苦しそうな顔を見せると相手につけ込まれる。どんな場面でも笑顔を忘れるな」と教え込まれたそうだ。

 今から35年ほど前、樹理が現役で活躍していた頃、人気のスター歌手にジュリー(沢田研二)がいた。その頃の実業団女子バレーは、東京オリンピック以来、注目され続けてきた競技であった。

 そこで活躍する樹理は、強烈なアタックと屈託のない笑顔でお茶の間の人気を博し、現在の栗原恵や大山加奈以上の存在であった。そのため「ジュリ」という呼び名は、ジュリーと相まって全国区になった。そして笑顔も「ジュリスマイル」といわれた。

 73年に博多女子商業高卒業後、ユニチカに入社。同時に全日本入りした。入社4年目の76年モントリオール五輪では控えの選手として出場、金メダルを獲得した。そして、連続金メダルが期待された80年のモスクワ五輪。だが、旧ソ連のアフガニスタン侵攻に対する抗議で、アメリカを主導とする西側諸国ではモスクワ五輪に対するボイコット運動が起こり、日本も巻き込まれ参加を辞退した。

 モントリオール五輪代表の白井貴子、前田悦智子らが引退した後、全日本を支えたエースの樹理もそんな悲運に泣かされた一人だった。

 現在は高校生にバレーを教えながら“第二のジュリ”を育てている。



◎ママさんバレーに参加した時も

 モスクワ五輪ボイコットから2年経った82年に樹理は現役を引退した。

 その後、故郷の福岡県北九州市に帰り結婚、出産を経て育児に専念する生活を送った。

 そんな生活の中でママさんバレーに参加したいと思っていた樹理だったが、ママさんバレーの規定では、日本代表選手は引退後10年間ママさんバレーへの参加を禁止されていた。

 その10年間の出場禁止規定が解除となった後、樹理は生活を送っていた地元中間市の体育指導員をしながらママさんバレーにも参加。そこでバレーの指導にも当たっていた。ボールへの打点こそ低くなっていたが、樹理が力強いスパイクをコートに打ち込むたび周囲にどよめきが起こっていた。

 その後の07年、かつての恩師が幹部を務める飯塚市内にある私立の飯塚高校が男女共学を機に女子バレーボール部を創設。その監督に請われて就任。現在に至っている。

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