昔とんぼの旅日記-カラコルム・スケッチ編(22)
2009年08月13日05時00分 / 提供:PJ
【PJニュース 2009年8月13日】この日、僕は遂にガクさんの眠る山、キンヤンキッシュと対面をした。
ガクさんは、このスケッチの中央部あたりの氷河の中で眠っている。
以下は『鎮魂のカラコルム』からの、ごく一部を除いた全文の引用である。
『キンヤン氷河に沿う稜線の上部に向けて岩稜(リッヂ)を登る。胸突き八丁だ。
高度は四十を超える。心臓が激しく踏る。持病の心拍欠損が一層激しくなっている。脈をとると、三拍か四拍でひとつ欠ける。律動だって無茶苦茶だ。
自分でも情けなくなる。足が上らない。
なんのこれしき、心だけが強がる。
「もう少し!」と寺沢さんが声をかける。
「大丈夫!」と、僕は絶えだえの息の下で答える。
絶望的に長く、永遠に続くか、と思う登りだった。
やっと稜線上に達した。切り立った絶壁のふちに立った。シュトックを支えにして暫くうつむいて肩で息をしていた。呼吸が乱れてその場に崩れそうだった。息が整うのを頭を下げたまま待った。
頭を上げた。見えた!
巨大な、途方もなく巨大な、岩と氷がのしかかるかのように目の前にあった。まぎれもないキンヤンキッシュの壁だ。頂上は雲で見えない。眼下、遙か下の方にキンヤン氷河。
「着きましたね」
寺沢さんが、いたわるようなやさしい声でそう言い、手袋をとって手をさし出した。はっとして僕も居ずまいを正した。
ここまで来られたのはこの人のお蔭だ。
「ありがとう」
握手をしたら、突然、こみあげるものがあった。
僕はあわてて寺沢さんと離れ、二十米くらい先の岩蔭へ走っていった。靴を履いたままで、岩棚の上に正座をした。帽子を取り両手を腰に揃えて、キンヤンの南西壁と向き合った。
「ガクちゃん、来たよ、俺は約束通りここに帰ってきたよ」
言ったら胸が熱くなった。泣くな、みっともない。こらえようとして目をつぶった。そうしたらとたんに頭の中が眞白になって、突如、あたりがシーンとなった。陽光のきらめきが消え、風の音も消えた。寺沢さんも侍従アリもみんな居なくなった。静謐(せいひつ)と沈黙(しじま)の世界に包まれた。』(『鎮魂のカラコルム』より)
『いかん、と思って目を開けたら、世界が戻った。再び風の音が聞こえてきて、体をあぶる日射しを肌に感じた。まわりの小さなざわめきが元に戻った。
僕は、改めてキンヤンの南西壁をじっと見つめる。ガクの落下地点が雲に見えかくれした。傍(はた)から見たら、この時の僕は、呆(ほう)けてなにかに憑(つ)かれている人のように見えたに違いない。長いこと、雲と雪と氷を見ていた。
あそこだ。ガクはあのあたりに居る。二十四歳そのままの姿でガクがあそこに眠っている。見ている当の俺はもうすぐ七十四歳になる老いぼれだ……。
「長かったよナ」、とガクに向って呟いた。
そのあと、その後に亡くなられた白木隊長や、小倉君や、イトーや、クマの四人を思い浮かべた。この四人を俺は背負ってきた。背負って、文字通り這って登ってきた。
これも重かったぜぇ。
風がビュッと耳を切った。髪が乱れた。
南西壁にまつわる雲が、一際(ひときわ)激しく流れ出した。空を見上げたら、千切れ雲が驚くほどの速さでヒスパー氷壁(ウォール)に向って飛んでいった。
それを目で追いながら、手にした帽子をかぶり、ゆっくりと立ち上った。
寺沢さんの待つところへ戻った。
戻ったら、寺沢さんの目も少し赤くなっていた。』(『鎮魂のカラコルム』より)【つづく】
■関連情報
石川信義(いしかわ・のぶよし):1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、東京大学経済学部・医学部卒。学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。
著書に、『心病める人たち』岩波新書(1990年)、『鎮魂のカラコルム』岩波書店(2006年)、『開かれている病棟』(星和書店)など。
【むかしとんぼ】ムカシトンボ(昔蜻蛉)、学名Epiophlebia superstes。トンボ目・ムカシトンボ科のトンボ。体長約5センチ。春季、渓流で見られる。日本固有種。原始的なトンボの形をつたえ、生きている化石といわれる。日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボ(Epiophlebia laidlawi)がヒマラヤ山脈周辺に分布するのみ。
石川信義ブログ『昔とんぼの旅日記』
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ガクさんは、このスケッチの中央部あたりの氷河の中で眠っている。
以下は『鎮魂のカラコルム』からの、ごく一部を除いた全文の引用である。
『キンヤン氷河に沿う稜線の上部に向けて岩稜(リッヂ)を登る。胸突き八丁だ。
高度は四十を超える。心臓が激しく踏る。持病の心拍欠損が一層激しくなっている。脈をとると、三拍か四拍でひとつ欠ける。律動だって無茶苦茶だ。
自分でも情けなくなる。足が上らない。
なんのこれしき、心だけが強がる。
「もう少し!」と寺沢さんが声をかける。
「大丈夫!」と、僕は絶えだえの息の下で答える。
絶望的に長く、永遠に続くか、と思う登りだった。
やっと稜線上に達した。切り立った絶壁のふちに立った。シュトックを支えにして暫くうつむいて肩で息をしていた。呼吸が乱れてその場に崩れそうだった。息が整うのを頭を下げたまま待った。
頭を上げた。見えた!
巨大な、途方もなく巨大な、岩と氷がのしかかるかのように目の前にあった。まぎれもないキンヤンキッシュの壁だ。頂上は雲で見えない。眼下、遙か下の方にキンヤン氷河。
「着きましたね」
寺沢さんが、いたわるようなやさしい声でそう言い、手袋をとって手をさし出した。はっとして僕も居ずまいを正した。
ここまで来られたのはこの人のお蔭だ。
「ありがとう」
握手をしたら、突然、こみあげるものがあった。
僕はあわてて寺沢さんと離れ、二十米くらい先の岩蔭へ走っていった。靴を履いたままで、岩棚の上に正座をした。帽子を取り両手を腰に揃えて、キンヤンの南西壁と向き合った。
「ガクちゃん、来たよ、俺は約束通りここに帰ってきたよ」
言ったら胸が熱くなった。泣くな、みっともない。こらえようとして目をつぶった。そうしたらとたんに頭の中が眞白になって、突如、あたりがシーンとなった。陽光のきらめきが消え、風の音も消えた。寺沢さんも侍従アリもみんな居なくなった。静謐(せいひつ)と沈黙(しじま)の世界に包まれた。』(『鎮魂のカラコルム』より)
『いかん、と思って目を開けたら、世界が戻った。再び風の音が聞こえてきて、体をあぶる日射しを肌に感じた。まわりの小さなざわめきが元に戻った。
僕は、改めてキンヤンの南西壁をじっと見つめる。ガクの落下地点が雲に見えかくれした。傍(はた)から見たら、この時の僕は、呆(ほう)けてなにかに憑(つ)かれている人のように見えたに違いない。長いこと、雲と雪と氷を見ていた。
あそこだ。ガクはあのあたりに居る。二十四歳そのままの姿でガクがあそこに眠っている。見ている当の俺はもうすぐ七十四歳になる老いぼれだ……。
「長かったよナ」、とガクに向って呟いた。
そのあと、その後に亡くなられた白木隊長や、小倉君や、イトーや、クマの四人を思い浮かべた。この四人を俺は背負ってきた。背負って、文字通り這って登ってきた。
これも重かったぜぇ。
風がビュッと耳を切った。髪が乱れた。
南西壁にまつわる雲が、一際(ひときわ)激しく流れ出した。空を見上げたら、千切れ雲が驚くほどの速さでヒスパー氷壁(ウォール)に向って飛んでいった。
それを目で追いながら、手にした帽子をかぶり、ゆっくりと立ち上った。
寺沢さんの待つところへ戻った。
戻ったら、寺沢さんの目も少し赤くなっていた。』(『鎮魂のカラコルム』より)【つづく】
■関連情報
石川信義(いしかわ・のぶよし):1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、東京大学経済学部・医学部卒。学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。
著書に、『心病める人たち』岩波新書(1990年)、『鎮魂のカラコルム』岩波書店(2006年)、『開かれている病棟』(星和書店)など。
【むかしとんぼ】ムカシトンボ(昔蜻蛉)、学名Epiophlebia superstes。トンボ目・ムカシトンボ科のトンボ。体長約5センチ。春季、渓流で見られる。日本固有種。原始的なトンボの形をつたえ、生きている化石といわれる。日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボ(Epiophlebia laidlawi)がヒマラヤ山脈周辺に分布するのみ。
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パブリック・ジャーナリスト 石川 信義
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