新しい技術を生み育てるのは、エンジニア。同時に、エンジニアを育てるのは、技術そのもの。その人なしにはありえなかった技術の歩みが、その技術なしではありえなかった技術者人生とともに語られる技術史連載。第1回は日本が誇る「ノートパソコン」の開発24年史。

■日本の技術で新たな製品ジャンル「ノートPC」が生まれた
 ノートパソコンは、日本が生んだ傑作ともいえる製品ジャンルだ。
 もともとポータブル型のパソコンは、机の上に設置するデスクトップパソコンに対して、膝の上でも利用できることから、「ラップトップパソコン」と呼ばれていたが、日本のパソコンメーカー、部品メーカーが得意とする軽薄短小技術の採用により、小型軽量化が進展。これに伴い、持ち運びが可能なA4サイズのパソコンPCや、B5サイズのパソコンを、「ノートパソコン」として区分して呼ぶようになった。今では、ほとんどすべてのポータブル型パソコンをノートパソコンと呼んでいる。
 まさに、日本が誇る軽薄短小技術が、パソコンの小型化、モバイル化を実現し、世界標準にしたともいえる。

 ノートパソコンの第1号機は、1989年に登場した東芝のDynabookJ-3100SSだといわれる。製品発表という観点では、セイコーエプソンのPC-286NOTEexectiveが、Dynabookの発表よりも約20日間早かったが、出荷が10月となったことで、7月出荷のDynabookが第1号に位置づけられよう。
 東芝のJ-3100SSに名付けられたDynabookという名前は、さらにさかのぼること12年前の1977年に、ゼロックス・パロアルト研究所の研究員であったアラン・ケイ氏が提唱した、「ダイナミックメディア」を語源にしている。ケイ氏は、近い将来には、誰もが電子機器を持ち歩く時代がくると予測。この電子機器を「ダイナミックメディア」としたのだ。
 そして、多くのパソコンメーカーが、ダイナミックメディアの実現に向けて取り組んできたことを示すように、当時のDynabookには、「みんなこれを目指してきた」というキャッチコピーが使われた。
 Dynabook事業を率いていた元東芝取締役兼執行役員専務の溝口哲也氏は、当時から「誰でも、いつでも、どこででも、なんにでも」という言葉を用いて、このDynabookを紹介。20年前から、今でいう「ユビキタス」を表現し、「これが、夢のパソコン」としていたのを思い出す。

 Dynabookの当初半年間の出荷台数は計画の2倍規模となる12万台。市場規模が年間150万台という時代には驚くべき数字だ。そして、当時は、NECのPC-9800シリーズが市場を席巻しており、IBM・PC/AT仕様において、その牙城に最初の風穴を開けた製品だともいえよう。

 本体価格19万8000円という設定とともに、クレオから「BUSICOMPO」と呼ばれるワープロ、表計算、データベース、通信ソフト、スケジューラの5本をセットにしたオフィススイート製品が登場。しかも、価格は4万円という当時としては異例の低価格。いずれか1本の購入なら9800円という魅力的な設定となっていたのも追い風となった。Dynabook初期ユーザーの約半数が量販店で購入し、しかも、その8割がBUSICOMPOを同時購入していったという状況からもそれは明らかだろう。
 さらに、東芝では、その後1年で約200本のDynabook対応ソフトを品ぞろえすることに成功。ソフト不足というIBM・PC/AT互換市場の課題を解決してみせた。

■「ガリバー」の追撃
 東芝の好調に慌てたのが、当時、パソコン市場で「ガリバー」と呼ばれるほど圧倒的シェアを誇っていたNECである。
 社内では、「Dynabookの発表から3カ月以内に、これをキャッチアップする製品を市場投入せよ」との指令が飛んだ。パソコンの開発を3カ月で行うのは、尋常なモノづくりではない。だが、NECにはパソコントップメーカーとしての意地があった。……≫続きはこちら

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