マイコンからファミコンへと舞台を移したゲームの勃興期。この時代の伝説的なプログラマの中で、最年少が内藤寛さんではないでしょうか。「ドラクエ」 III、IVの開発者であり、起業した後は「ランナバウト」が大ヒット、「ムシキング」のプログラマも務めた彼は、ワインが大好きなんです。

プログラミングとは、自分との戦いである
■だまされ続けた青春(?)がすご腕プログラマを生んだ
― 内藤さんは「ドラクエ」(ドラゴンクエスト)や「ランナバウト」など大ヒットゲームのプログラマとして知られますが、プログラミングのきっかけとは?
な クソゲーのおかげで目が覚めた、かな。
― なな、詳しく聞かせてください。
な 中学生のときにインベーダーやパックマンのテレビゲームがはやってね。僕もゲームセンターで夢中になったんだけど、1ゲーム100円と高いのであまり遊べないわけです。そんなときに本屋で偶然、背表紙に「パックマン」と書いてある『I/O』(日本で初めてのマイコン専門誌)を見つけて、中を開いたら、タイプライターのついたテレビ(マイコン)の写真にパックマンが写っている。タダでゲームができるんだと知って、親に無理を言ってPC-6001を買ってもらいました。
 それからパソコンショップに行って、当時はカセットだったゲームソフトを買うわけだけど、画面の写真なんてないから、タイトルだけで中身を想像するしかない。でもタイトルは「ゴルフゲーム」や「パチンコ」なんかで想像しようがない。祈る思いで3000円や4000円をはたいて買うと、これが出来の悪いクソゲーばかり(笑)。だまされるばかりで頭にきてしまって、ゲームを改造するためにプログラミングを覚えました。当時はプログラムの中身を見ることができたから。
― 独学で覚えたわけですよね。その改造とは?
な プログラミングの本なんて本屋に1、2冊しかなくて、それでBASICを勉強しました。変えたのはキーのレスポンスなどですね。キーを離したときにきちんとキャラが止まるようにするとか。
 それが中学3年くらいで、本格的に学びたいと電機大附属高校の電子科に進みました。中3の夏休みに学校見学に行ったら、部屋の中にパソコンがズラ〜っと並んでる。もう行くしかないってね。それが入学したら「電線のつなぎ方」みたいな授業ばかりでパソコンは教えてくれない。また、だまされた(笑)。
― 高校時代からゲーム制作のアルバイトを始めたとお聞きしました。
な だまされたのはクラスメートも一緒で、もともと皆パソコンに興味があるから、いろんな情報が飛び交うんですね。アルバイトは禁止だったけど、ソフトハウスでバイトしているヤツがいて話を聞いたら、ゲームはできる、『I/O』は早く読める、おまけにお金ももらえる、でしょう。片っぱしから電話して、代々木のマンションにあったソフトハウスでのアルバイトが決まりました。2年くらいいて、そこで『I/O』のバックナンバーを読みながらアセンブラを覚えました。
― その会社ではどんなゲームをつくっていたんですか?
な クソゲーだった(笑)。

■入社したての若者がドラクエIIIのチーフプログラマに
― 内藤さんはチュンソフトでドラクエIIIとIVの開発をしていますが、どんな経緯で?
な コンピュータはもういいと思って、テレビカメラマン志望で専門学校に行きました。でも、よくよく聞いたらテレビ局なんて入れないし、よくて制作会社という話。それに、電気の授業内容は既に高校でマスターしているし、パソコンの授業内容は独学でわかっているから、先生に「『秀』をやるからこなくていい」って言われてしまった(笑)。なので、2年生から再びゲーム制作のバイトを。
 ただ、当時はファミコンでスーパーマリオがヒットしていた時代。パソコンのゲームソフトは数千本だったけど、ファミコンのは売れれば30万本とけた違いで、そんなソフトをつくりたいとまた片っぱしから電話。エニックス(現スクウェア・エニックス)から来てくれという返事があり、行ったら「中村君を呼ぶ」と。チュンソフトの中村(光一社長)さんがすぐに来て、バイトが決まって、卒業後はそのまま入社です。

― 今までの制作現場とは違っていましたか?
な 何千万円というマシンがそろった開発環境に驚いた。それと、チームでの開発も初めてで新鮮でした。ただ、学生やほかの仕事と掛け持ちしているスタッフが多くて、ドラクエIIIのチーフプログラマも掛け持ちの人だったんです。毎日は会社にこないから仕事がなかなか進まない。
 そこで中村さんに「チーフプログラマにしてくれ」って直訴しました。入社して2〜3カ月後くらいだったけど、OK。ドラクエIIIは実質的に僕ともうひとりで4〜12月に開発して、翌年の2月に発売されました。
― 当時は20歳くらいでしょう。ドラクエはそんな若者がつくっていたのか……。その後、クライマックスを起業するんですね。
な 23 歳のときに5人で立ち上げました。実は、入社したときから決めていたんです。ドラクエはやっぱり僕のゲームではないから、オリジナルを好きなようにつくりたかった。昔、アスキーがPC-6001版で「オリオン/クエスト」というゲームを出していて、当時としては珍しい3Dなんですが、すごくスムースに動いていた。僕もこんな3Dダンジョンゲームを開発したいと思っていたんです。それでまず、「シャイニング&ザ・ダクネス」を出しました。
― ほかにも「ランドストーカー」「ランナバウト」など多くのゲームを開発されていますが、印象に残ったゲームはありますか?
な 皆そうだけど……では、「ランナバウト」。レースゲームはいくつもあったけど、僕はジャッキー・チェンの映画に出てくるようなカーチェイスでやりたかった。ほら、細い路地をクルマが走ってゴミ箱を蹴散らしたり、店の中に突っ込んだりするやつ。
 だから、ナムコの「リッジレーサー」なんかを見ていて、走っている背景にファミレスがあったりすると、「あの中に入りたい!」と思っていた。そう思っている人はほかにもいるはずだと。
― 携帯型の液晶ゲーム「そだてて!甲虫王者ムシキング」のプログラミングもされていますね?
な 以前にミニゲームをひとりでつくっていて、それを集めた「クライマックスランダーズ」を出したのですが、セガが覚えていて声が掛かりました。小さな液晶画面だけど昆虫を育成するのでパラメータ数は多いし、いろいろな因果関係があったりして、開発に半年ほどかかりましたね。
 今年は「たたかえ!恐竜キング」(写真右)をまたひとりで開発。子供たちが遊んでくれる、喜んでくれると思うと、自然と頑張ってしまいます。僕の若いころに比べるとゲーム機のスペックや映像の表現力ははるかに進化したけれど、それらは必ずしもゲームの面白さに直結しない。面白かったファミコンソフトは今遊んでも楽しいし、映像やハードに限界があったからこそアイデアが出た部分もある。「見た目」は本質的な面白さの上にあるべきで、その逆は許されないよね。

■カリフォルニアにハマるとフランスには戻れない
― ところで、内藤さんはクルマがご趣味だとか。
な それがこの何年かで変わってきて、今はワイン。昔はワインよりクルマでしたが、運転すると飲めないので最近はあまり乗っていないです。中でもいちばんのお気に入りはカリフォルニアワイン。フランスの5大シャトーもイタリア系の何とかも、最初はそこから入ったけど、今では全然興味がない。カリフォルニアの赤がいい。
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