街の神話・サーキットの伝説をつくった二輪の名車

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日本を代表するオートバイ・メーカーのひとつ、ヤマハ発動機。静岡県磐田市の本社に隣接して設けられた「コミュニケーションプラザ」には、そんな同社が創業以来生み出してきた名車の数々が展示されている。

初号機・初参戦で国内最大のレースに優勝
 四輪車同様、今では世界でもトップクラスの評価を得ている日本のオートバイ。しかし、ヤマハがオートバイ業界に参入した1950年代、その品質はまだ世界には及ばなかった。一方で戦前からのブランドである「陸王」や「メグロ」も含め、当時、日本のバイクメーカーは150社を超え、激しい販売競争により淘汰が始まっていた。

 オートバイの開発は、楽器のヤマハ(当時は日本楽器製造)の一部門で始まった。戦前、ヤマハは楽器製造の木工技術を買われて、初期には木製だった飛行機のプロペラ製造に着手。後に金属製に変わってもそれを手掛け、プロペラの可変ピッチ機構などで機械製造の技術を蓄積した。
 その技術を生かすため、ターゲットにしたのがオートバイだったのだ。厳しい時代だからこそ、優れた製品を作れば後発でも十分対抗できると判断したという。こうして1955年に生まれたのが、「ヤマハのバイク初号機」、YA-1である。
「お手本としたのは、ドイツ・DKW(デーカーヴェー)社のRT125という車種。YA-1の発売を機に、1955年7月、モーターサイクル部門が独立し、ヤマハ発動機となります」(コミュニケーションプラザ館長 伊藤太一氏)

 会社設立からわずか10日目の7月10日、YA-1は当時二輪業界最大のイベントだった「第3回富士登山レース」に参加、初挑戦・初優勝の快挙を成し遂げる。続いて3カ月後の「第1回浅間高原レース」でも1位から4位を独占。国内2大レースを制覇し、一躍バイクメーカーとしても名を上げることになる。
 YA-1は性能だけでなく、当時黒一辺倒だったバイクの常識を覆した、えび茶とアイボリーのモダンなカラーリングと、仕上げのよさでも、当時の日本の二輪業界に一石を投じた。大卒初任給が1万円強という時代、その年収以上の13万8000円もする“超高級車”だが、「赤トンボ」の愛称で親しまれ、1957年末の生産打ち切りまでに約1万1000台が送り出された。「オシャレで、速い」という今につながるヤマハの評価は、この初号機から始まっていたと言える。

■ツーリングマシンの理想を追求したGTS1000A
 今回ナビゲーション役をお願いしたのは、コミュニケーションプラザ館長の伊藤太一氏。1974年にヤマハ発動機入社、以後約15年間、レーシングマシンを手掛け、その後はスポーツモデルを中心に市販車の開発に携わってきたという経歴の持ち主。そんな伊藤氏に、手掛けた中で最も思い出深いマシンとして挙げてもらったのが、1993年に発売したGTS1000Aである。

 バイクは四輪車以上に、乗り手が一体感を味わえる存在。それだけに趣味性が高く、用途による種別だけでなく、発売される地域の“お国柄”によっても機構やデザインは変わってくる。35カ国に60工場をもつヤマハ発動機は、それぞれの市場に合わせたモデルを開発しているが、GTS1000Aも、特にヨーロッパを意識した輸出専用車。水冷DOHC5バルブ並列4気筒、排気量1000ccの大型車だ。

「スポーツタイプを基本に、ツーリングマシンとしての性能をとことん追求したのがこのモデルです。ヨーロッパでの規制を見越して排ガスをクリーンにする三元触媒を搭載。燃料噴射装置と、当社では2車種目となるアンチロック・ブレーキ・システム(ABS)を装備し、前輪は通常のテレスコピック・サスペンションではなく、片持ち式のスイングアームタイプを採用。独特の前輪サスに合わせて、フレームも“Ω(オメガ)シェイプ”と名付けた特異な形状のものになっています。カウルも、そのフレームの機能美を見せるようにデザインされているんですよ

 高速ツーリングでの抜群の安定性を実現するために、考えられる機構をすべて注ぎ込んだとも評されるGTS1000A。いろいろな意味で、ヤマハらしいこだわりが際立つ、個性的なマシンと言える。
「世界のファンに、わが社の技術をアピールすることはできたと思っています。もっとも新機軸を盛りすぎて高価になってしまい、販売は振るわなかったのですが……(笑)」

■数々の栄冠を勝ち取ったレーシングマシンたち
 会社設立10日目にしての初栄冠以来、ヤマハ発動機は積極的に国内外のレースに参加。ライバルメーカーと世界トップを懸けてしのぎを削り、今季も8月現在、ロードレース世界選手権、モトクロス世界選手権でコンストラクターとして首位の座にある。

 そんな半世紀の歴史を振り返る名車たちもまた、館内にずらりと顔をそろえている〔写真7〕。
「1968年に登場したロードレーサー、RD05Aは、選手権のレギュレーションが変わり250ccクラスでは2気筒以下と制限される前の最後のマシン。2ストローク、V型4気筒エンジンを搭載しています
 この年のロードレース世界選手権250ccクラスでは、特にストレートで強みを発揮、ライダー、メーカー双方にタイトルをもたらした殊勲車である。

 1980年代後半に活躍した鈴鹿8耐用マシン、YZF750は、水冷4ストロークDOHC、5バルブ4気筒エンジンを搭載、当時新記録の205周を記録したことでも知られる。

「わが社はコンストラクターとしては1984年から耐久選手権に本格参戦していますが、最初はマシントラブルなどで勝てなかった。しかし1987年、鈴鹿8耐で初めて優勝を飾ったのがこのマシン。その後88年、90年と、YZF750は3回の優勝をもたらしました。当時はちょうど8耐の人気が盛り上がってきたころ。お客さんも15万人なんて入って、あの熱気はすごかった。
 レーシングマシンには、とにかく“勝つ”ための技術と工夫をとことん注ぎ込む。若い人も、チームも、そして会社全体も盛り上がる一体感がたまらない。一方、市販車では要求される機能要件は異なり、しかも量産という最大の難関がある。設計の重点はだいぶ違います。しかし、レースに勝つために編み出された技術がそのまま、あるいは少し形を変えて入っていくこともある。そして、形にならないスピリットのようなものも……。私自身そうでしたが、技術者もそのキャリアの中でレース部門と市販車部門とを行き来することがあります」
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