あのGRAPE開発者・伊藤智義が目指す三次元TV実現
三次元テレビの実現に向けた電子ホログラフィ技術で知られる計算機学者の伊藤智義氏。実は89年にスーパーコンピュータ並みの性能を持つ天文学の専用計算機を開発、世界をアッと言わせた人物だ。そして漫画「栄光なき天才たち」の原作者でもある。

クレイジー☆エンジニア
■千葉大学教授 伊藤智義氏
三次元テレビの実現を目指す電子ホログラフィ技術で賞を受賞するなど、ここ数年よく見かけるこの研究者の経歴に、驚きの声を上げる人は少なくない。「あの伊藤さん、ですか?」と。天文学や分子動力学の世界で用いられ、高速コンピュータ分野で科学計算のオリンピックとされるゴードン・ベル賞を過去7度も受賞している「GRAPE」プロジェクトの初期のメンバーであり、世界を驚かせた伝説の1号機、2号機のハードウェア開発者がこの伊藤氏なのだ。その開発は、「ネイチャー」で取りあげられるなど、世界にセンセーションを巻き起こした。驚愕は、スーパーコンピュータの1カ月のリースが約1億円だったその時代、同レベルの演算速度を持つコンピュータを、わずか20万円ほどで自作してしまったこと。そしてこの伊藤氏、80年代の東京大学在学中、ヤングジャンプに連載され大ヒットした「栄光なき天才たち」の原作者でもあるのである。

■東大に年1人入るか入らないかの高校から
 小中学校は、本当に普通の子どもでした。成績も普通。理系の科目が好きで、天文学に興味を持って、科学者に憧れて。転機になったのは、高校1年生で結核を患ったことです。半年間の療養が必要で、学校を休まなければならなくなった。先生からは、休学しなくてもギリギリ進級は可能だと言われたんですが、どういうわけだがもう一度1年生をやるという選択を自分でしまして。それで半年間、これもどういうわけだが勉強しようと思って、数学など高校1年の範囲を全部独学してしまったんです。結果として、翌年はびっくりするくらい成績が良くなった。それで自信が付くようになりました。もしかしたら、東大でも入れるんじゃないか、と。

 出身は武蔵高校ですが、東大に毎年100人以上も入るのは私立の武蔵高校です。私が出たのは、東大に年1人入るか入らないかの、公立の武蔵高校。そもそも両親は大学を出ていませんし、塾に通ったこともない。驚いたのは、小学校や中学校の昔の友人たちでした。入学してからキャンパスで顔を合わせた小学校時代の友人は、当時から進学塾にバリバリに通っていました。「なんでお前がここにいるの?」なんて、顔をされたことを覚えていますね(笑)。

 漫画の原作を書くようになったきっかけも、この休学にありました。一人だけ年上になって、年下のクラスメイトにちょっと違ったところを見せないと、という気負いがどこかにあったんです。そんなとき、学習雑誌に投稿した文章が読者ページに掲載されて。さらに国語の時間に書いた作文が先生に褒められたりして、自分に文才があると思いこんでしまったんです。それこそ高校生作家にでもなれば、クラスメイトも驚くだろう、と。

 この年、たまたまヤングジャンプが創刊されて、漫画大賞の募集広告を目にしまして。原作部門もありましたから、これに応募してみようと。でも、もちろん簡単に入賞できるはずもない。結局、17歳から6年間にわたって10回ほど応募を続けることになります。

■年収1400万円の仕事をいとも簡単に捨てた
  1000通の応募があって、入選は1人か2人。今から考えれば、超難関の賞でしたが、当時は絶対に自分が取れるものだと思いこんでいました。楽観主義者というわけではありませんが、続けるのはそれほど苦でもなくて。落選すると2、3日は落ち込むんですが、次の応募締め切りが近づくとまたやる気が出てきて。ダメなら次、という感じで(笑)。原稿用紙40枚、50枚というのは、高校生には大変でしたが、時期が来ると反応しちゃうんです(笑)。

 何かの本で、ワールドカップの得点王になる選手は、得点王になれないことなんて考えないんじゃないか、というのを読んだことがあります。そういう感覚があったのかもしれない。私に強みがあるとすれば、昔からダメなときでもダメだと思わないことかもしれません(笑)。あきらめるという感覚がないんです。そして大学2年で初めて佳作を受賞します。これが、後の「栄光なき天才たち」につながっていくんです。

 その後、連載は好評をいただいて単行本になりました。大学院1年生のとき、単行本が売れたことで、私の年収は印税収入などで1400万円もありました。そのまま続けていれば、かなり収入を得られたかもしれません。でも、それで食っていこうと思ったことはありませんでした。むしろ大学院の1年目で、もう漫画のシナリオライターには一旦終止符を打っていました。一番大きな理由は、やはり科学者になりたいのだ、という思い。だから、大学院の研究に専念したかったんです。

 中学や高校の頃、世の中を変えているのは誰なのか、とよく考えていました。歴史の本には政治家の名前が出ています。でも、実際に変えているのは、科学者なんです。産業革命しかり、原子力やロケットしかり。指示をした政治家が表に出ているけれど、実際に作り、人類を変えるような発見をしたのは誰なのか。これが、私の科学者への動機でした。経済的な成功がほしいわけではなかったんです。してみたかったのは、歴史を変えるようなこと。誰かを驚かせ、誰かに褒められること。名誉を得て、それこそ教科書に太字で名前が書かれる。そういうことこそ、いやそういうことだけが、自分の中ではカッコイイことでした。その美学を貫きたかったんです。

 実際のところは、大学院を出て、初めて大学の助手になったときの年収は310万円。世間は厳しいと思いましたね(笑)。

■大切なことは「形式よりも実を取る」こと
 実は私は大学を出るとき、普通の人よりも4年遅れています。高校で休学、大学入学時に浪人、それから大学2年のときと、4年のときに留年したからです。長い人生を歩むのに、多少、余計な時間がかかってもいい。高校の休学で、そのことに気づくことができたのは、人生でとても大きかったと思っています。

 大学2年のときの留年は、希望する学科に進めなかったからでした。留年せずに、そのまま別の学科に進めば4年で卒業ができた。でも、私は天文学が学びたかった。好きなことをやらないと、進級する意味がないと思ったんです。「形式よりも実を取る」ということ。考えてみれば、いつもそういう選択をしていました。ちなみに大学4年の留年は、高校の教員になることを一時は真剣に考えたから。この夢は、後に非常勤講師として実現します。そして4年で留年したことが、後のGRAPE開発にも大いに関係してくるんです。

 ただ、もちろんやりたいことがすべてやりたいようにできてきたわけではありません。留年までして進んだのは基礎科学科第一というところで、天文学科ではありません。天文学科の定員枠は数名ほどしかなく、私の成績ではとても入れませんでした。留年は、天文の基礎となる物理を学べる学科に進学するためで、憧れの天文学はさらにそのずっと先にありました。残された唯一の細い道が、大学院の受験で、ようやく理論天文学の研究室に合格できました。そして、ここで思いもよらずコンピュータと出会うことになります。

 当時の私はコンピュータについて、ほとんど知りませんでした。そんな自分がどうしてGRAPEプロジェクトに出会うことができ、また世界をアッと驚かせるような開発に携われたのか。そこには本当にたくさんの偶然があったと思っています。実は私は大学院に正式に入学する前からすでにプロジェクトに関わっていましたが、当時の研究室には人が足りなかったんです。しかも、このプロジェクトが後にビッグプロジェクトにつながっていくなどということは、誰も認識していませんでした。だから、コンピュータをまったく知らない私に、いきなり「やってみないか」という声がかかった。もし、これが後に世界に知られるような研究になるとわかっていたら、大学院入学前の学生に開発のチャンスがくるはずがありません。

 そして折しも私自身にも当時、研究できるだけの環境がありました。大学4年で留年した私の最終年度は、ほとんど単位を取り終えていた状態だったからです。所属することになる研究室の杉本大一郎教授の指示で、まさに言われたまま、よくわからないGRAPEの開発を始めることになったんです。

 一方で何か面白いものが待っている予感も持っていました。新しい出会いに、何かが見出せる気がしていました。実際、もし普通に天文学者になっていたら、私がコンピュータ開発に携わることはありませんでした。天文学者はコンピュータを作ろうなんて思わないし、それが面白いテーマだとはとても考えないからです。結果的に、天文学からちょっと別のところに入った学問に関わったからこそ、私はコンピュータの世界に入ることになった。おかげで、計算機科学をベースとした今の研究テーマにも出会うことができたんです。
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