バブルの死、「コミュニティ」の誕生
日本の1990年代はバブル崩壊に始まり、再生を模索した時期として記録されています。第5回は、産業界全般が「失われた10年」の喪失感に覆われる中、インターネットという新しい起爆剤を獲得したIT産業の、21世紀への胎動をつづります。

Part1 IT産業の地殻変動
■バブル崩壊から誕生したITベンチャー
 NTT株公開に象徴される狂騒的なバブル経済に陰りが見えたのは1991年の秋だった。高騰を続けていた不動産価格が、にわかに急落に転じたのだ。それは最初、不動産取引の頭打ちにすぎなかったが、翌年になると金融機関の過剰融資が表面化し、貸付金の返済や含み資産の評価損で企業業績が低迷、株価の急落というドミノ倒しが始まった。

 情報産業も例外ではなかった。バブルによる見かけ上の膨張が収縮したばかりでなく、コンピュータ・メーカーは「脱メインフレーム」の嵐にさらされることとなった。ダウンサイジングとオープンシステムが本格化し、メーカーはハードウェアからソフト/サービスへ、軸足を移さざるを得なくなった。
 ソフトウェア業が受けた打撃はもっと大きかった。売上高の3割を占める金融機関が一斉に新規システム開発を凍結した結果、大量の余剰人員が出た。人月単価の自転車操業的な受託開発型ソフト会社の経営はたちまち行き詰まり、多くの企業が人員の削減に踏み切った。

 通産省(現経済産業省)の特定サービス産業実態調査によると、1992年に48万8469人だった従業者数は翌1993年に44万5662人に、事業所数は6977から6432に大きく減少している。オイルショックのとき、事業所はIT化による生産性の向上で乗り切ろうとした。このためソフト業は不況にかかわらず高い成長率を維持したが、今度ばかりは逆風を経験することになった。

 ただ、このときのリストラはソフト業界にマイナスとしてのみ作用したわけではなかった。大手の受託開発型ソフト会社からほうせんかの種のように飛び出した“志士”たちが、ひそやかに新しいビジネスモデルへの挑戦に取り掛かっていた。1995年11月のWindows95発売をきっかけとする日本のインターネット時代は、そうしたITベンチャーが切り開いたといっていい。

■ITブームは単なるバブルだったのか?

 ビットバレー。
  ITベンチャーが集まる東京・渋谷が業界の中でこう呼ばれるようになったのは1996年の秋ごろからだった。パソコン(Windows)とインターネットに照準を絞り、ホームページやデジタルコンテンツ(コンピュータ・グラフィックス)の作成を受託したり、BBS(電子掲示板)やメールサービスを提供する新興企業が台頭した。
 1950年代から60年代にかけて勃興した情報サービス業は、政策においては「21世紀を担う知識集約型産業」と位置づけられ、育成・振興策が講じられた。「高度化」の名のもとで情報処理技術者試験、プログラム等準備金制度、電子計算機システム安全対策基準、ソフトウェア生産工業化システム(Σシステム)、システムインテグレーション税制などが整備された。

 ITベンチャーが台頭した背景にこうした産業政策があったのはもちろんだが、それまでと決定的に違ったのは投資のトレンドだった。バブル崩壊で金利が限りなくゼロに収斂した結果、投資がITベンチャーに集中することになった。折から株式公開の基準が緩和されたことが、ITベンチャーへの投資に拍車をかけた。
 新興企業向け株式公開市場の開設はそもそも、信用力がない企業にも優れた技術があれば事業資金を調達できる環境を整えることに目的があった。そうした企業の成長を加速することによって新しい雇用需要を生み出し、経済回復の起爆剤にしようという政策的意図を反映したものだが、それによってインターネット・バブルが形成されたことは否定できない。

 むろん、すべてがバブルだったわけではない。自らがよって立つ技術基盤や目指す方向を見失わなかった企業は、その後も着実な歩みを続けている。彼らにとってマネーゲームに走った自称「ITベンチャー」は迷惑な存在だったかもしれない。実際、そうした企業の中には、大手ソフト会社が成し得なかったソフトウェア工学の実践によって、システム構築の上流工程を専門に手掛けているケースもある。

「ソフト業を変革していくのは、旧来の受託開発業やパッケージベンダーではなく、1995年以後に誕生したITベンチャーかもしれない」(SRAホールディングスの丸森隆吾会長)という指摘は、ソフト業の地殻変動を予見させる。

 偶然の符合かどうか、時代の空気をガラッと変えた出来事が、その前後に起こっている。1995年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災、3月の東京・地下鉄サリン事件などオウム真理教によるテロがそれだ。
 阪神・淡路大震災は自然災害に見えるが、被害を広げたのは地下に埋設さ
れていたガス管だったといわれている。ガス管を伝って炎が際限なく神戸の街を覆っていった。
 一方のオウム真理教によるテロは、オカルト的なカルト集団が起こした反社会的行為として糾弾されているが、大都市の空疎な人間関係を直撃したということもできそうだ。その後、酒鬼薔薇(サカキバラ)事件(1997年5月)、和歌山毒物カレー事件(1998年7月)、附属池田小事件(2001年6月)と、常軌を逸した殺人事件が日常的に発生するようになった。

 これらの事故・事件は、図らずもインターネットが社会インフラのひとつとなっていく過程を示すものともなった。阪神・淡路大震災ではBBSを通じて被害情報が交換された。悲惨な事件が起こるたびに、ネット上で「犯人探し」やさまざまな論評が展開され、しだいに新聞・テレビなどのメディアにも影響を与えるようになっていった。

 そんなインターネットが、IT産業の地殻変動を起こしていった。実際、それまでの情報化はコンピュータとソフトウェア、ネットワークの3つを指していた。ところが1995年を境に「IT」という呼称が広まり始め、コンピュータはICに、ネットワークはインターネットに置き換わっていく。戦後レジームからの脱却は、既に始まっていたのだ。

■「オブジェクト指向」と「エンベデッド・プログラム」

 では、 1995年以後、ソフトウェアの世界はどのように変わったのだろうか。テクノロジーにおいては、プログラミング言語の主力がCOBOLに代表される手続き記述型から、C++、Java、Perlなどオブジェクト指向型に転換した。さらにこれまでコンピュータの付属物のように扱われていた通信プロトコルが TCP/IPに標準化され、Webのアーキテクチャが主役の座に就いた。
 情報システムの構築手法も変化した。企業の基幹系アプリケーションに ERP/CRM/SCMの概念が取り込まれ、受託開発業務の中心はパッケージをベースにユーザーの要望を実現していくカスタマイズにシフトした。モジュール・エンジニアリングばかりでなく、プロダクト・ベースド・エンジニアリングの技術・ノウハウが求められるようになっていく。

 もう一つの変化は、携帯電話や情報家電の登場だった。そこに組み込まれるプログラムは、初めは機器の動きをコントロールするだけだったが、メモリーの集積度とアクセス速度が格段に向上し、インターネットとの連携利用が実現したことによって、さまざまなサービス機能が追加されるようになった。「エンベデッド・プログラム」の市場が確実に広がり、ビジネス・アプリケーションとは異なる開発手法が必要になった。
 1990年代の後半は、このような変化が顕在化し、市場の構造を質的に変えていった時代だった。そうした現象が統合化されていくのは、情報システムの西暦2000年(Y2K)問題を乗り越えてからのことである。

OSS−ソフトウェアの文化論
■オープンソース・ソフトウェアへのこだわり
「オープンソース・ソフトウェア(OSS)にこだわるのは、ソフトウェアの文化論を打ち立てたいから」――SRA先端技術研究所の青木淳は言う。
 1957年生まれの50歳。OSSを研究開発する傍ら、京都産業大学をはじめ、いくつかの大学で非常勤講座をもつ。著書も多い。「生涯一プログラマ」を自認し、現在も毎日2〜3時間を「プログラムを読むこと」に充てる。
「テレビを見たり新聞を読んだりするのと同じように、私にとってはそれが日課」
 と笑う。

 青木が開発した3次元グラフィックライブラリ「じゅん」はGNU一般公有使用許諾(GPL)によるOSSとして1997年に公開され、全世界から累計6万件を超すダウンロードのアクセスがある。3次元CAD、ソリッドモデリング、シミュレーション、ゲーム、歴史的出土品の分析、遺伝子工学など適用範囲は限りがない。
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