インターネット前夜の「通信」時代
情報化の流れは、1980年代に入ると「パラダイムシフト」といっていい大きな転換を迎えます。ITは、社会・経済だけでなく、個人の生活にも欠かせない存在となっていきました。この時代に「パソコン」や「BBS」を初体験したエンジニアも多いことでしょう。 技術クロニクル(年代記)の第4回は、職場や家庭に普及していったコンピュータが、さらに「オンライン」でつながり始めた時代を描きます。

Part1 解き放たれた通信回線とIT技術
■FOSが生み出したOSブーム
 1979年4月15日、前年に開港したばかりの成田空港から日本電子工業振興協会(電子協、現電子情報技術産業協会)の海外視察団が出発した。当時、情報産業界の視察先は米国と相場が決まっていたが、電子協の視察団が向かったのはまず欧州だった。
 英国では「ナショナル・エコノミック・デベロップメント・オフィス(NEDO)」を訪問した。政府機関や地方行政の事務処理にコンピュータを適用して、一層の効率化を図るべきと提案していた官民共同組織である。次に西ドイツの政府系研究機関「ゲゼルシャフト・フールマセティック・ウント・ダーテンフェルアルバイツンク(GMD)」で、研究レポートの作成にワードプロセッシング・システムが実用化されている模様を視察した。
 一行はさらに大西洋を渡って米国に移動し、秘書やタイピストによる文書の作成と整理収納のコストが220億ドルに達し、それが毎年2倍のスピードで膨張していることを知った。

 視察団は同年7月、「フューチャ・オフィス・システム(FOS)に関する調査報告書」を発表、オフコンによるデータ処理とワープロの活用を提言した。オフコンはジャストデスクサイズの「NEACシステム100」(73年8月発表)を皮切りに国産メーカー各社が製品化し、日本語ワープロ機は78年9月に東芝が「JW-10」を発表していた。単品として市場に提供されていた機器を、「FOS」の名で体系化したのである。これがOAブームの原点となった。

 1980年の2月、オフコンと周辺機器の展示会(主催:日本経営協会、日本データ・プロセシング協会)が大阪市で開かれた。OKITACシステム9(沖電気)、NEACシステム50II(日本電気)、FACOMシステム80(富士通)、HITAC L-320(日立)、TOSBACシステム15(東芝)、B90(バロース)、USACシステム7(内田洋行)、WANG(伊藤忠データシステム)、 NIXDORF8800(兼松エレクトロニクス)、Sycor 350(東洋オフィスメーション)、キヤノナック(キヤノン)などが出展され、オフコン百花繚乱の様を呈していた。
 コンピュータ・メーカーが企図したのは、オフコン市場の拡大だった。80年代末には年間出荷台数が20万台を超え、狙いどおりに推移したが、日本語ワープロ機やファクシミリ(FAX)、複写機、OCR、POS(販売時点情報管理)システムといった事務系電子機器が主役となっていった。予想外だったのは、ワークステーションとパソコン(PC)が、メインフレームやオフコンの地位を脅かすようになったことだった。

■通信回線利用の自由化
 メインフレームはIBM30XXシリーズ、FACOM M380に代表される「超大型機」の時代に突入していた。大型化と並行して、「現場のデータ処理は現場で」という分散処理の考え方が脚光を集めていた。都市銀行や鉄鋼業が次期基幹システムの構築に着手し、企業におけるオンラインシステムの普及が集中処理と分散処理による事務の効率化ニーズを喚起した。

 企業のオンラインシステムは専用回線で構築されていた。また、企業間データ交換サービスはDRESS、TSSサービスはDEMOS-Eとして、電電公社が独占的に提供していた。受託計算センターは、専用回線によるオンラインサービスの拡張として、メーカーと卸売業、卸売業と小売業など企業間を結ぶ新しいサービスを志向していたが、そのために必要な公衆回線と専用回線の接続(公―専接続)は民間には許可されない。通信回線は公共企業体である電電公社の専管事項であったからだ。受託計算センターから見れば、国による民業圧迫であり、ユーザー企業からすると利用料金やサービスの内容、使いやすさなどに不満があった。
 1982年、郵政省(現総務省)は中小企業向けサービスに限定して民間事業者による公―専接続を認めることとし、「中小企業VAN」がスタートした。ただし、大容量高速回線を分割して提供する回線サービスは電電公社の独占のまま残された。

 VANを巡る法制度の改革は、しばしば情報処理サービス業の立場に立つ通産省と、電気通信の国家管理にこだわる郵政省の激烈な“綱引き”で語られるが、当の郵政省も実は独占禁止法の観点や国際的なすう勢から、「自由化やむなし」の腹を固めていた。米国でAT&T社が事業分割する代償として、データ交換サービスと情報処理サービスへの参入が認可されたのが、郵政省の方針を後押しした。
 1984年、電気通信事業法、日本電信電話公社民営化法が国会に提出され、可決成立した。施行は85年4月である。このときから電電公社は「日本電信電話(NTT)」となり、民間によるVANは完全に自由化された。

■ソフトウェアが起こしたITの「民主化」
OAブームと通信回線利用の自由化は、70年代に顕在化した「ハードウェアから情報処理・ソフトウェアへ」の動きを決定的にした。
 オフコンは「ターンキー」(キーを回して電源をONにするだけでアプリケーションが起動する)システムと呼ばれたように、組み込まれた業務アプリケーションが決め手だった。大手コンピュータ・メーカーは競争力のある業務アプリケーションを求めてサードパーティのソフト会社と協業した。

 PCの世界はソフト主導がもっと顕著だった。インテル社のMPUを搭載し、OSはデジタル・リサーチ社のCP/M-86かマイクロソフト社の MS-DOSで、FDDやディスプレーはサードパーティの専門メーカーが供給。日本電気や富士通といったコンピュータ・メーカーは、それらをPCに組み立て、大量に販売する役割を果たすようになっていった。
 決め手になったのはやはりソフトウェアだった。初期はソフトウェア・アーツ社の「ビジカルク」、ロータス・ディベロップメント社(のちロータス社、 IBM社が買収)の「ロータス1-2-3」が主導権を握った。80年代の中ごろには、ソードの簡易言語「PIPS」、ジャストシステムの日本語ワープロ「一太郎」、管理工学研究所のDBMS「桐」など、PC系ソフトの国内ベンチャー企業によるソフトウェアが相次いで登場した。

 通信回線利用の自由化によって実現したVANサービスも、センターシステムのアプリケーションのウエートが大きかった。日用雑貨VAN、玩具VAN、眼鏡VAN、物流VAN、海運VANなどの全国規模のシステムが構築・運用され、のちのEDI(Electronic Data Interchange:電子データ交換)の基盤となった。

 第二電電(のち国際電信電話と合併しKDDI)、日本テレコム(のちソフトバンクが買収)など、純民間の電話サービスが登場し、さらに無線回線を使った移動電話(自動車電話、携帯電話)を実現した。回線サービスはデータ通信の基盤に位置づけられ、競争によって通信料金は急速に低価格化し、その上にどのようなアプリケーション(付加価値)を載せるかの争いになっていく。

 もう一つ、見逃せないのはPC通信の登場だった。ニフティサーブ(富士通系のNIF、現ニフティ)、PC-VAN(日本電気)、アスキーネット(アスキー)などの大手サービスが相次いで登場し、電子メール、電子掲示板(BBS)、チャットといった、それまでにない「個人参加型のIT」の世界を切り開いた。

 特定企業における特殊な技術者集団が独占してきたITは、80年代の10年間で一挙に民主化が進んだ。その背景に法制度の改革と社会資源の蓄積、技術の高度化と標準化があったのは確かだが、それは一面的な理解にすぎない。ITのフレーム(価値観や競争原理)を転換する地殻変動を、ソフトウェアが起こしたのだ。
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