ハビエル・バルデム

――『コレラの時代の愛』に出演することになった経緯を教えてください。

ハビエル・バルデム(以降、バルデム):2006年1月にこの映画の話を聞きました。「コレラの時代の愛」は、僕が14歳のときに読んだ小説でした。姉のベッドのサイドテーブルから盗んだんだ(笑)。「返してよ」「イヤだね!僕も読みたい!何これ?愛?コレラ?」もちろん単語ひとつ理解できなかった(笑)。でも自分が別の次元に引きつけられた初めての経験でした。読んだときは、まるでカルタヘナに行ったように感じられたし、あの市場にいるようでした。僕がそこでフルーツを売っているみたいでした。僕は「この作家、すごいな!いったいどんな人だろう?」と思ったものです。その後、2度ほど読みました。だから映画になると知ったときには、この脚本を読んでみたいと思ったんです。脚色が見たかった。小説とは絶対にマッチしないと思っていたからね。でも、予想に反してそれは小説のエッセンスをとてもよくつかんでいたんです。それで、マイク・ニューウェル監督がこの役に僕は合わないと考えていたのを知りながらも、「フロレンティーノを演じたい」と言わずにいられなかったんです。

――なぜ、あなたにフロレンティーノが合わないと?

バルデム:小説では、フロレンティーノは小さな男です。まるで影のような、ネズミみたいな男なんです。僕は大きなクジラタイプだからね(笑)。でも僕には情熱があった。監督からOKをもらってから作業し始め、このフロレンティーノが生きる小さな箱の中に自分を埋め込もうと努力しました。これは『ノーカントリー』とは正反対だったです。

――あなたが演じたフロレンティーノは、どのような人物なのでしょうか?

バルデム:フロレンティーノは、振り向いてくれない女性に深い愛を抱くという甘い恩恵に与(あずか)った、実に人間らしいキャラクターだと思います。当初、まだ彼らが若かった頃、二人の恋愛はうまくいきかけましたが、その後、二人を引き離す出来事が起こります。フロレンティーノは自分にとって彼女がどれほど大切な存在であるかを思い知らされ、彼女を追い求めることに残りの人生を費やします。肉体的にではなく、精神的にね。彼は、出会った女性たちの中に、彼女の面影を見つけようとするんだね。

――この映画で難しかったことはどんなところでしょうか?

バルデム:このキャラクターがどんな男なのか、自分で読み取った直感を信じる。ということですね。どんな男として描かれるべきか、何百万人もの人が自分なりに思い描いています。それと戦うのは初めから負け戦だとわかっていますからね。エッセンスを捉えようとして、四六時中小説に戻ったんです。ほとんど取り付かれたように。そしてある日、「もう十分だ!」と思いました。本は閉じよう。もう開かない。情報は十分得た。あとは自分がしたいようにやってみよう。みんなのイメージするフロレンティーノに合わせるなんて、不可能ですからね。

――ガルシア=マルケスとは話をしましたか?

バルデム:2度話しました。最初は緊張しましたね。彼はとても優しかったけれどね。普段から話しているみたいに、とても面白く、親しみがありました。僕は「先生はこのキャラクターを見事に、感動的にすばらしく、細かいところまで描き込んでいらっしゃいます。ただ、私は俳優です。腹立たしいほどしつこい人種だ。役をきちんと作り出すためにはもっと確かなものが必要なのです。私を助けていただけますか?」と言ったんです。彼は「もちろんだよ。何が知りたいのかね?」と答えました。そこで僕は「肉体的な特徴としてこうあって欲しい部分をいくつかあげるなら、どこを取り上げますか?」と聞いてみました。「彼は決して声を荒げない男だと思っている」と彼は答えました。それはフロレンティーノが、人の注意をなるべく引き付けたくないからなんですよね。彼は常に影の中に潜んでいたい。自分の存在が周りに知られるのを怖がっているみたいにね。「私は彼を野良犬のように見ていた。ずっと殴られ続けてきた犬のようだ。怯えながら街を歩くような男だが、それでも愛を渇望している。抱きしめられることをね」僕は「先生、ありがとうございました」と言いました。そしてそれが僕のやり遂げようとしたことです。影のような人間を肉体的に表現しようとしたんです。

――ガルシア=マルケスが描いた登場人物についてはどのような感想を持っていますか?

バルデム:『コレラの時代の愛』という物語の独特なところは、フロレンティーノが別の視点からストーリーを語るところにあるんです。その一つが、フロレンティーノと多くの女性たちとの恋愛関係です。彼は、女性たちの内面にあるフェルミーナを探そうとするけれども、見つからない。でも、誰もフェルミーナではないのだから当然ですよね。これはとても悲しいことだと思うけれど、時に面白い状況を作り出すんです。

――この物語で描かれている愛について、あなた自身の思いを教えてください。

バルデム:この映画における、ガルシア=マルケスの愛の描写には…、これが最高傑作たるゆえんなんですが…、愛のあらゆる定義が盛り込まれているんです。様々な関係や状況、彼女(フェルミーナ)の視点から愛する登場人物たちを通して、それは語られています。そして最後に、「本物の愛は永遠である」、「本当の愛に気づくためには、時に時間がかかる」というメッセージを投げかけていると思いますね。

――役者としては、この原作をどのように解釈したのでしょうか?

バルデム:原作をじっくり読み解くことは避けては通れない作業で、「作者はこの登場人物をこう表現している」とか、「これはこの人物特有の言動だと作者は考えている」なんて、メモを取ったりもするけど、最終的にはそれを演じなければならないんです。描写の中には、演じることが不可能な理論的概念の記述もあり、そういう場合は、感情に訴えなければならないと思いました。特にこういう作品はね。

――この物語のロマンティシズムに共感しますか?

バルデム:全てはマルケスが作り出したものです。愛やコレラという病が同じ場所から発生しているというアイデア。それは呼吸するための、痛みと苦悩、誰かを死ぬほど渇望する心です。その痛みをフロレンティーノは経験しなくてはならない。それは我々すべてに関わるものだと言えるでしょうね。我々は全員、愛し、愛されているのだからね。

――『コレラの時代の愛』の撮影のエピソードは何かありますか?

バルデム:特にはありませんでしたが・・・。最初から大変な撮影になるだろうと思っていましたよ。でも実際は、これほど大変だとは思っていなかったですね。シーンの多くがカットなしでは演じきれませんでした。例えば10個セリフがあるシーンで、2つ言い終わると、30分メイクを修整するために止まる。また2つ終って、カット、メイク直し。自由に演技するのが難しかったんですよ。セックスの途中で常に邪魔が入るみたいにね(笑)。

――初共演となったフェルミーナ役のジョヴァンナ・メッツォジョルノはどのような女優でしたか?

バルデム:彼女は仕事に対して、誠実で真剣に向き合う人ですね。気取らないしね。偽りがないから、仕事をしていて楽しかった。この映画が彼女を有名にしてくれることを、心から願っています。彼女は素晴らしい女優だからね。

――2008年は、『ノーカントリー』と『コレラの時代の愛』という大作2本が公開されるという、あなたにとって大きな年になりましたね。あなた自身は、それをどのように感じていますか?

バルデム:疲れた。疲れていますが、満足でもあります。まったく性質の違う映画2本が公開されるというチャンスに恵まれたからね。2本の公開時期が重なったのは偶然です。両方とも誇れる作品ですよ。自分の演技が好きだなんて言うつもりもないし、そんなことは言ったこともないですが、この2本の映画は、僕がしたかったことについて、非常に誠実なアプローチができた作品だと思います。

――2つの作品での役はまったく違いますね。

バルデム:自分では『ノーカントリー』の役よりもフロレンティーノのほうに近いと思う。ありがたいことにね(笑)。だからこの役のほうがやりやすかった。それに『ノーカントリー』で演じたあとだから、気分転換にもなった。『ノーカントリー』では、世界の外側にはじき出された場所に自分を置いていた。外界と関連を持つことができない壊れた魂だった。この映画では、その1週間後には、カルタヘナの美しく、彩り豊かな世界に自分を馴染ませる必要があった。そこは、どんな環境下であっても人々が人生を楽しむ術を知っている場所だ。彼らには人生がわかっている。人生は今ここに、君や僕と一緒にある。それが人生なんだ。

――2作の監督、コーエン兄弟とマイク・ニューウェルとの違いはどのようなものでしたか?

バルデム:マイクのほうが俳優と一緒に仕事をすることに興味を持っていると思います。リハーサル過程を通して、全員を同じ考えに導こうとしますね。たくさんのことを解決したいと思っているんですね。そこが素晴らしい。マイクは舞台出身だから、全員を同じ船に乗せるためのリハーサル過程の大切さを理解していますね。違いはそこだけだと思います。それは、監督が皆、同じものを求めているからです。「アクション!」と「カット!」との間を、真実の瞬間で満たすことをね。この映画ではマイクは大変だったと思います。ロケ地の湿度は95%。とても暑かったんです。俳優は、衣装やメイクをつけていたし、町の騒音は経験した中でも最高レベルだったしね。悲鳴あり、ドラムの音あり。この美しく、驚きに満ちた町を、ぜひ皆さんにも訪れてもらいたいと思います。でも、生命力に溢れたこの町に静寂を望むのは不可能ですよ(笑)。我々はその音の中で撮影していました。住民は手助けしようとしてくれますが、あまりにも熱中し過ぎて、大歓声をあげるんです。シーンを撮影している最中にね(笑)。

――この映画は、スペイン語で撮影したほうが良かったと思いますか?

バルデム:スペイン語が母国語だからね、もちろんだよ。でも10分で結論に至りましたた。「いや、そうじゃない」とね。『夜になるまえに』で学んだことは、たとえ映画が上手くいって、多くの人にとってその映画が素晴らしい映画だったとしても、言語のことは10分で忘れてしまうということです。もし映画が上手くいかなくて、心にも届かず、感動もしなかったら、一番初めに批評されるのが、言語でしょう。それは賭けなんですよ。でも映画がきちんと感情を伝えていたら、言語など誰も気にしないんです。マルケスはこの小説を地球上のほとんどすべての言語に翻訳していて、英語もそのひとつです。だから英語でやっても問題はないはずだと思います。

――『ノーカントリー』でアカデミー賞助演男優賞を受賞したときはどのような気持ちでしたか?

バルデム:受賞した時は受賞スピーチの40秒で感謝している人の名前を全部言わなくてはと思い、本当に緊張していました。母親にスペイン語で気持ちを伝えられて光栄に思いましたよ。私の家族は、祖父母から私に至るまで俳優一族なので、やっと認めてもらえたということで、家族皆にささげたかった賞なんです。

――アカデミー賞を受賞してからあなたは、変わりましたか?

バルデム:変わったことはないですし、自分でも変わってないことを願いますね。受賞したことは光栄ですが、少し距離を置いて自分を見つめることが大切だと思っています。

――ドキュメンタリー作品『Los Invincibles』(07)(IMDbでは『Invisibles』になっています)でプロデューサーを務めていますが、同じように映画を監督したいと思いますか? 多くの俳優がそういう道を辿ろうとしているようですが。

バルデム:俳優が監督業を考える理由はわかります。俳優は演技しますが、結局は編集されてしまいますからね。編集室で、誰かがつなぎ合わせる。すると俳優は「何だって?僕はあんなことはしていない」と思うんです。編集が上手くいけば、自分の演技もよく見えます。でも上手くいかなければ、「何が起こったんだ?」と疑問が残るだけです。だから俳優が「もういい。自分の作品を作ろう」と言う瞬間がくるんでしょうね。それは、コントロールしたいということじゃないと思います。自分の仕事を守ろうとする気持ちです。自分ではなく、ほかの俳優であっても同じだと思います。ショーン・ペンの監督作『イントゥ・ザ・ワイルド』を観ましたが、とても素晴らしい。俳優全員の演技が見える。カメラの後ろで監督したのが俳優だということがわかる。それは俳優が演技を知っているからです。だからなぜ多くの俳優が監督したいのか、僕には理解できるんです。

――次の作品は何でしょうか?

バルデム:可能性はいくつかありますが、まだ何も決まっていません。ストライキのせいでね。次に何が起こるのか、誰にもわからないですね。

コレラの時代の愛
8/9(土)より シャンテ シネ、Bunkamuraル・シネマ他 全国順次ロードショー
提供:ティ ワイ リミテッド
配給:ギャガ・コミュニケーションズ
(C)2007 Cholera Love Productions, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

映画『コレラの時代の愛』公式ホームページ
『コレラの時代の愛』プロモーション映像 予告編 - GyaO

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