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日本人の心こそ、『世界文化遺産』に登録せよ(1)

日本人の心こそ、『世界文化遺産』に登録せよ(1)
京都・聖護院の修験者による富士山の入峰修行は、1872(明治5)年に「修験道廃止令」から数えること、実に百数十年ぶり。(撮影:穂高健一、7月2日、静岡県)
【PJ 2008年07月24日】− 夏になると、富士登山がなにかと話題になる。「一度は富士山に登ってみたい」とか、「富士山は登る山でなく、観る山だ」とか、「富士山からご来光を仰ぎたい」とか。それは日本人の心や魂の象徴として、富士山が存在するからだ。

 富士登山の歴史は古い。平安時代の末から、富士山は修験者(山伏)たちによって開かれた。京の都から東海道を下ってきた修験者にとっては、村山口登山道(静岡・富士宮市)が表口だった。世が安定した江戸中期になると、一般庶民の間で『富士講』が流行した。江戸から便利な北面の富士吉田口(山梨県)、東面の須走口(静岡県)が発達した。むろん、裾野から歩いて登っていた。

 昭和後半になると、モータリゼーションにより、富士登山は五合目から登るコースが一般的になった。裾野からのルートはすたれていった。かつての村山口登山道は、すでに明治時代に消えていた。ひとつには政治的な理由があった。

 王政復古をはたした明治政府が、1868(明治初)年に神仏分離令を出した。それは天皇を中心にすえた、国家神道の押し付けである。『仏さまと、神さまは違う』という神仏分離であり、『インドから渡ってきた仏さまよりも、日本古来の神さまが優位にある』という思想だった。

 ここから世にいう廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が全国に吹き荒れた。1872(明治5)年の「修験道廃止令」によって、修験宗は禁止された。村山登山口の興法寺(こうぼうじ)は廃され、村山浅間神社になった。

 1874(明治7)年には、富士山頂の大日寺は廃され、仏像仏具はすべて排除、破壊された。それでも村山の人たちは、一度は修験道を復活させて神仏混淆(こんこう)にもどしていた。近代登山がはじまり、村山口登山道はにぎわっていた。しかし、明治末に新道が開かれたために、やがて廃道になっていった。

 2004年8月には、地元住民の協力の下、畠堀操八さん(登山家・藤沢市)が村山口登山道の道のりをほぼ完全なかたちで見つけだした。メディアや登山雑誌が紹介し、口コミなどから『村山古道』として世に広まったのだ。

 畠堀操八さんは自著『富士山・村山古道を歩く』で、ルートの歴史的価値を紹介した。富士山麓の地元のみならず、全国の登山者の間でも注目されてきた。

 畠堀さんは、江戸時代に確立した、海水(海抜ゼロメートル)で手足を清めてから山頂(3776メートル)まで登るコースを推奨する。新五合目からの富士登山はなにかしら中途半端で、達成感が薄く、物足りなさがある人にはお勧めだ。

 田子の浦から村山までは、約20キロの1日コース。道々には旧東海道の史跡や古刹も多く、歴史散策もできる。2日目は、大自然がたっぷりの村山古道から新六合目。3日目には山頂に向かう。みずからの足で、裾野が広い円錐形の頂点に立てば、達成感と充実感がある。体験者の誰もがそう感慨ぶかく語る。【つづく】

■関連情報
ライブドア・デパート:畠堀操八著『富士山・村山古道を歩く』(風濤社)
記者HP:穂高健一ワールド
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト 穂高 健一【 東京都 】
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