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「平泉」 世界遺産見送り なぜ?

「平泉」 世界遺産見送り なぜ?
新覆堂。中に金色堂がある。岩手県平泉町の中尊寺にて。(撮影:鈴木義哉)
【PJ 2008年07月15日】− 先日 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録に岩手県平泉町が見送りとなる残念なニュースがあった。平泉には有名な中尊寺など仏教関係の有名な建築物があり、特に金色堂は見るものを立ち止まらせるほどの建物なのだ。私自身も3年前にそこへ行った。

なぜか教えていない奥州藤原氏
 にもかかわらず、平安時代末期に平泉を拠点に東北に一大勢力を築いた奥州藤原氏のことは意外と知られていない。最近、歴史の教科書で、やっと平家に追われた源義経をかくまったとして教えられるようにはなったようだが、扱いは小さい。正しい歴史認識というなら東北の支配者だった奥州藤原氏のことはもっと教えてしかるべきなのだ。

 平泉には他にも毛越寺といった平安貴族の趣のある寺や、源義経の終焉(しゅうえん)の地である義経堂(ぎけいどう)がある。特に中尊寺の象徴とも言える金色堂は文字通りすべてを金で覆われ中の仏像は極楽浄土を表現したものとされている。内部には奥州藤原三代、初代の清衡、二代基衡、三代秀衡の遺体とその息子・泰衡の首が納められている。

奥州藤原氏とはいかなる存在だったのか?
 平泉は平安末期、東北最大の都として栄えた。寺が多かったのは当時の政治拠点として仏教は必要な存在で戦(いくさ)の悲惨さを見てきた清衡は仏教による平和の実現を考えていたとされている。11世紀には東北で2度にわたる戦乱があり、奥州藤原氏はそれを勝ち抜き東北の支配者となった。それを可能にしたのは、金の産地や農業に適した地域を押さえていたためもたらされるばく大な収入があったこと、そして、朝廷に頻繁に貢ぎ物を送り、東北の実効支配を黙認させていたとされている。

 そして三代秀衡の時代に平治の乱で父が失脚した源義経が、庇護(ひご)を求めて奥州藤原氏のところへやってきた。その後6年間、義経は平泉で武芸を学ぶが兄・頼朝の平家打倒の挙兵を聞き、藤原氏の軍勢を率いて兄の元へはせ参じる。そこで源平合戦がおき、義経は源氏の総大将として下関の壇ノ浦で平家を滅ぼしてしまった。

 しかし、安徳天皇の保護に失敗した上、朝廷との交渉は頼朝を通す約束を聞かず勝手に交渉してしまい、怒った頼朝は義経を鎌倉に入れなかった。追われる身になった義経は再び平泉へ入るが、頼みの秀衡は間もなく病死。秀衡は息子の泰衡に義経を長とした東北の支配確立を命じるが、平家を倒した源氏の領地の切り崩しにあいつつあったうえ、頼朝より義経を討つように度々言われた。

 源氏の圧力に屈した泰衡は義経に対し挙兵し、義経は殺されてしまう。しかし、泰衡も頼朝の率いる軍勢に追われ”裏切り者”として殺されてしまい、1189年東北の栄華をきめた奥州藤原氏は滅ぼされてしまった。頼朝が鎌倉幕府を開いたのはその3年後である。

 選ばれなかった理由はいくつもあるが、浄土思想(死後に極楽浄土で成仏する考え)がキリスト教が多い選考委員に理解されなかったという説もある。キリスト教はいかなる理由でも人を”神”にしないからだ。また象徴とも言える金色堂が寺なのか、墓なのか、慰霊施設なのか歴史学者や仏教学者ですら説明できないとも言われている。

 ただ、東北の貴重な都の風情を伝える平泉を何とか世界遺産として欲しいのだが・・・。【了】

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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト 鈴木 義哉【 兵庫県 】
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