朝日新聞の報道(6/21)によれば、大阪府知事と府労連との徹夜団交でバトルが白熱しているとのことだ。

団体交渉権は労働基本権のひとつとして認められた権利だから、バトルをするのは勝手だが、民間の目線で見れば、「往生際が悪い」公務員だと言わざるを得ない。それもそのはず、公務員の多くは自分たちが社会の主人公だと考えているからである。

「市民が主人公の政治を」「納税者が主人公の行政を」とは、選挙演説などでよく聞かれる言葉だが、これは本来、公務員が持つべき基本姿勢であるといえる。

それでは、肝心の公務員はどう考えているのかと言えば、【Powerd by 官公労】の成果により「公務員労働者こそ主人公」なのである。

「労働者こそ主人公」というキーワードでインターネット検索をかけてみると分かるが、これは社会主義国家の基本理念である。
もちろん我が国では思想信条の自由は保障されているから、そうした信条を持つこと自体はとやかく言うことではない。

しかし、主人公だろうが、脇役だろうが、裏方だろうが、生活していくために歯を食いしばって働いている民間企業の社員や派遣労働者から見れば、なんのことかと思うであろう。

官公労は組合員=公務員に対して「労働者は社会の主人公でありエリートであるが、資本主義社会の中では虐げられている。」と教育する。
また、職員の学歴コンプレックスを上手に利用し、高卒で採用された職員を「労働大学」と称する研修施設に入れて、「労働大学卒」という称号を与えるので、学校を出たばかりの純真な若者がエリート意識を持つのも無理はない。

さらに、公務員たちは難関とされる公務員試験を突破してきたというエリート意識があり(ノンキャリアの試験もそれなりに難しく競争率は高いのだ。)、生涯安泰のパスポートを得たという特権意識がある。

そして、官公庁には許認可権を始めとした権力が与えられている。この権力は、本来、国民/市民から委託されたものだが、許認可等業務の実務をやっていくうちに、「俺がコイツ(市民や業者など)の命運を握っている」などと勘違いする者が出てくる。

かくして、「社会の主人公である労働者」という意識と「エリートである公務員」という意識が合体して、「公務員こそ社会の主人公」という発想になるわけだ。パブリックサービスという本来の使命はどこかに行ってしまっている。

大阪府職員の往生際の悪さは、「勘違いエリート」の傲慢にほかならない。病の根は深いのである。