【Legends of REDS】アイトール・ベギリスタイン「誰からも愛されたスペインの英雄」
「浦和レッズマガジン6月号(5月12日発売)より」
1997年夏、スペインから左利きのMF、アイトール・ベギリスタインがやってきた。黄金時代のバルセローナやスペイン代表でプレーしたベギリスタインは長年のキャリアの中で培った能力や経験をチームに還元しただけでなく、優れた人間性でチームメートをはじめ、多くのサポーターから愛されたのだった。
リーグデビューから2試合目、左足ボレーで初得点を決める
その当時から、リーガ・エスパニョーラに関心のあった人々は、垂ぜんの思いではなかったか。
1970年代、オランダのスーパースターだったヨハン・クライフが、88年にバルセローナの監督に着任した。90年代前半には「ドリームチーム」と称賛され、バルセローナの輝かしき黄金期を構築した。その一翼を担った名MFが、97年の夏、レッズに移籍してきたのだ。
チキ(Tx iki)とはスペイン語で小さいという意味。この愛称で親しまれた171センチのアイトール・ベギリスタインがその人だ。
チキは、キャリアをスタートさせたレアル・ソシエダから、88年にバルセローナへ移籍。90−91シーズンからリーガ・エスパニョーラ4連覇を果たしたほか、91−92シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で初優勝した。残念ながらチキは、そのチャンピオンズカップ決勝には出場していない。
バルセローナで栄光の7シーズンを過ごした後、デポルティーボ・ラコルーニャに移籍して2年間プレー。リーガ・エスパニョーラ通算453試合で、90得点という大記録を残した上、スペイン代表としても88年の欧州選手権をはじめ、94年のW杯アメリカ大会など22試合に出場して6点をマークした。
97年7月10日に来日したチキは、その2日後、西京極陸上競技場で行われた第1ステージの京都戦にわざわざ出向き、レッズというチームを知ろうとした。実にまじめな男である。
日本サッカーについては、チキより半年先に来日し、横浜Mでプレーしていた親友のフリオ・サリナスから情報提供してもらった。「サリナスは、スペイン代表とバルセローナのチームメート。レッズからオファーをもらったとき、彼はとても強く、サポーターが大勢いるチームだと話していた。メキシコとアメリカのクラブからも誘われたが、レッズを選んで良かったと思っている。ただ、この蒸し暑さに慣れるまでには時間が掛かる。食事や生活環境は問題ないが、家族が日本になじめるかどうか不安だ」と加入会見で話していた。会見場はまだ改修前の、大原サッカー場の貧相なミーティングルーム。ただでさえ、蒸し暑かった。
左利きのチキは、バルセローナでもスペイン代表でも、左サイドの攻撃的なポジションでプレーするのが得意だった。ところが、当時のホルスト・ケッペル監督は「ゲームメーカー的な役割を期待している」と起用法を明かし、チキのお披露目試合となった7月22日のシャープカップ、マンチェスター・ユナイテッド戦では4−4−2のトップ下で使った。
市原(現千葉)との第2ステージ開幕戦でJリーグにデビューしたが、このときもトップ下。サリナスと初対決した第2節の横浜M戦では、55分にドリブル突破してPKを獲得し、10分後には永井雄一郎のヘッドの折り返しから、強烈な左足ボレーでJリーグ初得点を蹴り込んだ。第6節のC大阪戦では決勝点。浦和駒場スタジアムの照明塔4基が、落雷の影響でハーフタイムに停電した名古屋との第9節では、2得点1アシストと大活躍した。チキが得点した3試合は、いずれも白星だった。
しかし結局、Jリーグ、ナビスコカップ準々決勝2試合、天皇杯2試合ともすべて得手ではない司令塔を任され、97年は本来の持ち味を発揮していない。
1997年夏、スペインから左利きのMF、アイトール・ベギリスタインがやってきた。黄金時代のバルセローナやスペイン代表でプレーしたベギリスタインは長年のキャリアの中で培った能力や経験をチームに還元しただけでなく、優れた人間性でチームメートをはじめ、多くのサポーターから愛されたのだった。
リーグデビューから2試合目、左足ボレーで初得点を決める
その当時から、リーガ・エスパニョーラに関心のあった人々は、垂ぜんの思いではなかったか。
1970年代、オランダのスーパースターだったヨハン・クライフが、88年にバルセローナの監督に着任した。90年代前半には「ドリームチーム」と称賛され、バルセローナの輝かしき黄金期を構築した。その一翼を担った名MFが、97年の夏、レッズに移籍してきたのだ。
チキ(Tx iki)とはスペイン語で小さいという意味。この愛称で親しまれた171センチのアイトール・ベギリスタインがその人だ。
チキは、キャリアをスタートさせたレアル・ソシエダから、88年にバルセローナへ移籍。90−91シーズンからリーガ・エスパニョーラ4連覇を果たしたほか、91−92シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で初優勝した。残念ながらチキは、そのチャンピオンズカップ決勝には出場していない。
バルセローナで栄光の7シーズンを過ごした後、デポルティーボ・ラコルーニャに移籍して2年間プレー。リーガ・エスパニョーラ通算453試合で、90得点という大記録を残した上、スペイン代表としても88年の欧州選手権をはじめ、94年のW杯アメリカ大会など22試合に出場して6点をマークした。
97年7月10日に来日したチキは、その2日後、西京極陸上競技場で行われた第1ステージの京都戦にわざわざ出向き、レッズというチームを知ろうとした。実にまじめな男である。
日本サッカーについては、チキより半年先に来日し、横浜Mでプレーしていた親友のフリオ・サリナスから情報提供してもらった。「サリナスは、スペイン代表とバルセローナのチームメート。レッズからオファーをもらったとき、彼はとても強く、サポーターが大勢いるチームだと話していた。メキシコとアメリカのクラブからも誘われたが、レッズを選んで良かったと思っている。ただ、この蒸し暑さに慣れるまでには時間が掛かる。食事や生活環境は問題ないが、家族が日本になじめるかどうか不安だ」と加入会見で話していた。会見場はまだ改修前の、大原サッカー場の貧相なミーティングルーム。ただでさえ、蒸し暑かった。
左利きのチキは、バルセローナでもスペイン代表でも、左サイドの攻撃的なポジションでプレーするのが得意だった。ところが、当時のホルスト・ケッペル監督は「ゲームメーカー的な役割を期待している」と起用法を明かし、チキのお披露目試合となった7月22日のシャープカップ、マンチェスター・ユナイテッド戦では4−4−2のトップ下で使った。
市原(現千葉)との第2ステージ開幕戦でJリーグにデビューしたが、このときもトップ下。サリナスと初対決した第2節の横浜M戦では、55分にドリブル突破してPKを獲得し、10分後には永井雄一郎のヘッドの折り返しから、強烈な左足ボレーでJリーグ初得点を蹴り込んだ。第6節のC大阪戦では決勝点。浦和駒場スタジアムの照明塔4基が、落雷の影響でハーフタイムに停電した名古屋との第9節では、2得点1アシストと大活躍した。チキが得点した3試合は、いずれも白星だった。
しかし結局、Jリーグ、ナビスコカップ準々決勝2試合、天皇杯2試合ともすべて得手ではない司令塔を任され、97年は本来の持ち味を発揮していない。
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