1999年のMMAデビュー以来、実に35戦(32勝2敗1分)のキャリアの持ち主は、ミドル級、ウェルター級、そしてライト級と常に己の肉体の限界に挑むようなファイトを繰り返してきた。

MMAブームが起こる以前に良質な中堅プロモーションが共存していた中西部、デンジャー・ゾーン(ダン・スバーンのプロモート)、アルティメット・レスリング、名マネージャーのモンテ・コックスが人材育成大会として開催してきたエクストリーム・チャレンジ、リアリティ・サブミッション・ファイティングでキャリアの序盤を過ごす。

BJとは、対照的なステップ・アップを経験してきたシャークは、このころにカロ・パリシャンを下している。

2001年2月、UFCデビュー戦でティキ・ゴーセンを下すが、その後の連続参戦は果たせなかった。同日のセミファイナルで、BJは宇野と王座決定戦を行い、分けている。再び、地元中西部の大会に戻り、と同時に日本(パンクラス)、カナダ(UCC=現TKO)などでキャリアを重ねたシャークは、2002年3月にUFC復帰を果たす。ここで中尾受太郎、ベンジー・ラダックを下し、翌2003年4月25日にマット・ヒューズが保持するUFC世界ウェルター級王座挑戦することとなった。

五味もオクタゴン・サイドで見守った、この一戦でテイクダウン&エルボーという自身の得意技で敗れたシャークは、この敗戦から3年以上、UFCのオクタゴンに入ることはなかった。

PRIDE武士道に参戦し、上山龍紀をポジショニングで圧倒するが、地味で強いキャラクターが受け入れられず、日本定着もならなかった。

実はUFCから離れていた3年間で、シャークは13連勝しており、実に12試合で一本勝ち、もしくはTKO勝ちを収めている。たった1試合の判定勝ちが、この上山戦だった。

シャークの戦績を正当に評価したズッファは、彼を再びスカウトした。2005年11月にGSP戦をマッチアップ、この試合で敗北を喫したシャークだったが、ニック・ディアズを破りライト級転向を果たすと、2006年10月14日にケニー・フロリアンとのUFC世界ライト級王座決定戦で勝利し、ついに念願の世界のトップに就くこととなった。

しかし、苦労人の苦労は終わらない。昨年7月にエルミス・フランカを下し初防衛に成功したが、試合後のステロイドチェックで陽性反応が出て、1年間の試合出場停止と王座剥奪という憂き目に遭ってしまう。本人は、今もステロイド使用を否定し、ズッファ陣営もカリフォルニア州アスレチック・コミッションの裁定でなくシャークの擁護に回った。

スパイクTVで中継されるUFCファイターのドキュメンタリー番組「オールアクセス」で中継されたように、「食事は味を楽しむものじゃない。栄養分のことを考えて摂取するだけ。僕のデザートはこれだよ」とベビー・フードに貪りつくシーンなど、シャークのストイックな生活は、関係者の間に評判になっていたからだ。

このステロイド問題、シャークの控訴により、結果コミッションは半年間の出場停止という処分の軽減を言い渡す灰色決着となったが、ベルト剥奪の裁定は覆らなかった。

出場停止期間が明けた直後に、BJが王座に就いたわけだが、「BJはベストの一人。ただし、僕はオクタゴンでベルトを失ったわけじゃない」と、シャークは言い切る。

ライト級転向を気に、気ままな天才から努力する天才と進化したBJ・ペンと努力の人=ショーン・シャーク。ベルト、そして自らの存在意義を賭けて、24日にオクタゴンへ向かう。

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