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【Legends of REDS】レッズと歩んだ21年

【Legends of REDS】レッズと歩んだ21年

文●河野正
写真●兼子愼一郎、フォート・キシモト

横山謙三(元浦和レッズ監督、総監督、GM)

「浦和レッズマガジン5月号(4月12日発売)より」

 レッズの前身、三菱重工時代からチーム、クラブとのかかわりは21年にも及ぶ。その間、選手、監督、総監督のほか、常務取締役やゼネラルマネージャーを務め、強化のみならずクラブ運営にも携わり、レッズの発展のために力を尽くした。「新しいスポーツ文化の価値観を上げていくためには、ここはとてもふさわしい町だ」先見の明を持ち、さまざまな立場でレッズに貢献した横山謙三氏の功績を振り返る。

赤色のユニフォームを採用し現在のレッズの原型をつくった

 横山謙三さんは、クラブに従事した1994年1月から2006年6月まで、監督を皮切りにゼネラルマネジャー(GM)、総監督、営業担当の常務取締役の4役をこなした。

 レッズの前身である日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工でも、76年から83年までの8シーズンにわたって指揮を執るなど、このクラブ、このチームとのかかわりは足掛け21年にも及んだ。三菱重工時代は日本リーグ、天皇杯、JSLカップをそれぞれ2度ずつ制し、78年には3冠を達成している。

 新しいことにチャレンジする精神が、昔から旺盛だった。

 三菱重工は伝統的に青色のユニフォームを着用してきたが、78年のJSLカップで初めて赤色を導入。レッズの原型がここにあった。88年から91年まで日本代表を率いると、就任したばかりの初夏に開催されたキリンカップで、赤のユニフォームをお披露目した。それまでの日本代表といえば白か青を基調にし、左胸に日の丸を付けていたが、横山監督は赤色に変えた上、左胸には日本サッカー協会のエンブレム、三本足のカラスを縫い付ける大胆なデザインに刷新した。

 当時、4―3―3か4―4―2が当たり前だったシステムにしても、3―5―2という斬新な編制を取り入れ、スピードと運動量、得点力のある選手をウイングバックに起用。福田正博をはじめ、本来FWの選手を次々に採用した。筑波大2年の井原正巳を初めて代表に招集するなど、積極的に若手を登用し、新旧交代を加速させた。

 レッズの初代指揮官、森孝慈監督が成績不振により、Jリーグが開幕して1年限りで辞任。最後の指揮を執った93年12月15日のG大阪戦翌日、10年ぶりに現場復帰した横山さんが後継監督として就任会見に臨んだ。

「しばらく指導の現場から離れていたこともあって、(監督要請の)話があったときはあまり乗り気でなかった。弱いチームだし、正直言ってかなり迷った。しかし浦和は私の育った町でもあるし、自分の町という思いが強い。(Jリーグという)新しいスポーツ文化の価値観を上げていくためには、ここはとてもふさわしい町だ」

 現在、浦和レッズは単純なプロフットボールクラブでなく、レッズというカルチャーをアジアと世界に発信するツールとなっている。サッカーを基幹事業にしながら、地域に根を張った文化活動を展開しているのだ。横山さんには、当時からそういう目利きの良さがあった。
【Legends of REDS】レッズと歩んだ21年
   

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