【Legends of REDS】ミスター・レッズ
福田正博(元浦和レッズFW、現浦和レッズコーチ)
「浦和レッズマガジン4月号(3月12日発売)より」誰よりも赤きチームでのタイトル獲得を強く願い、高いプロ意識を保って闘い続けた。
そして、低迷期からチームを支えるサポーターの大声援に誰よりも応えようとしていた。
そんな熱いハートを持つ男に与えられた誇り高き称号、「ミスター・レッズ」。
レッズを愛する者、すべての悲願を達成するため、時に重圧にもなった
代名詞を常に背負いながら、福田正博はレッズで現役生活を全うしたのだった。
飛び抜けた速さと技術を備えたJリーグきってのアタッカー
この原稿を書く前に福田正博の全盛期を思い出したくて、Jリーグが始まった1993年からレッズの年間ビデオを何本か見た。当時はまだDVDではなくVHSのビデオだ。
チームが勝運に恵まれず、福田のゴールも片手ほどしかなかった93年と94年にしても、プレーはシャープで軽やかだった。ボールがぴったり足元につき、距離が長くなるほど加速するドリブルは実にしなやか。守備網の背後に抜け出るタイミングも秀逸で、右足でも左足でもブレのないクロスを上げていた。92年のナビスコカップ予選リーグ第4節で鹿島と対戦したとき、ジーコは「スピードがあって技術も高い。こんな日本人がいたのか」と称賛した。
ビデオを見ただけでも往時の福田は、飛び抜けた速さと技術を備えたJリーグきってのアタッカーだった。
中央大に入ったころ、快足FWとして注目を集めた。埼玉県立川口北高サッカー部の田中龍太郎監督は、埼玉・武南高が全国高校選手権で初優勝したとき、1年生からDFのレギュラーとして活躍。順天堂大4年で、1級下の福田と関東大学1部リーグで初めて対戦した。
「福田君は3トップの右ウイングで、左サイドバックの私がマーク役でした。筑波大と戦う前は長谷川健太(現清水監督)、国士舘大とやる前なら向島建(元清水、川崎)を研究しましたが、私は福田という選手を知らなかった。『スピードがあるから注意しろ』と監督からの指示はありましたが、少し甘くみていたら、また抜きされた。とにかくスピードがあって、タイミングで抜き去るドリブルが印象的でした」と当時を振り返る。
初めて福田を取材したのはレッズの前身、日本サッカーリーグの三菱重工が2部から1部に復帰し、運営母体を三菱自動車に変えた90年だった。
三菱のホームゲームは、東京・西が丘サッカー場でほとんど開催された。新人だった前年、2部で26試合に出場して36ゴールという超人的な記録を残し、1試合で7点取ったこともあり、当時から福田はチームの花形選手として脚光を浴びていた。
あのころ日本リーグを取材する記者はせいぜい6、7人で、私は自ら質問することもなく、遠巻きにメディアとの問答をメモした。彼は記者の問い掛けにいつも立て板に水で答えた。理論的で分かりやすく、丁寧な解説までしてくれて、時には直情的になることも。「頭のいい選手だな」と感じた。福田はちょっとした立ち話でも、自説を滔々(とうとう)と語り始めたらなかなか終わりがなく、これはレッズでキャリアを全うするまで変わらぬスタンスでもあった。
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