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8月20日、今日はなんの日?その2。第一次日米交換船横浜へ。1942年。
2007年08月20日05時45分 / 提供:PJ
【PJ 2007年08月20日】−
1941(昭和16)年12月8日、日本の真珠湾攻撃により開始された太平洋戦域の戦いは、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・インド・東南アジア等の植民地に敵国人として多くの枢軸国側国民としての日本人等を残すこととなった。その事情は、連合国側も同じであり、1942年5月に交換に関する協定が締結され、アメリカ(と近隣の同盟国)との間には1942年6月と1943年9月の2回、イギリス(およびイギリス連邦諸国)との間には1942年8月の1回、交換船の運行が決定された。
日米間の外交官、その他の一時的居留民の交換引揚げにつきわが国より、浅間丸、コンテ・ヴェルテ号(イタリア船。開戦により帰国不能となり海軍で徴用していた)。米国よりクリップスホルム号をそれぞれ交換地、東アフリカのポルトガル領ロレンソ・マルケスに派遣した。3船は、7月23日交換事務を完了。26日正午、故国に向け一路帰航の途についた。同船には野村、来栖両大使以下約1500名の米州引揚者が乗船し、途中昭南島(シンガポール)に立寄り、一路平穏に8月20日午前横浜港へ入港した。
駐米大使来栖三郎の回顧録「泡沫の35年」には、以下のように記されている。
『自分達の一行は6月10日ホワイトサルファーを去って、翌11日正午ニューヨークで愈々スウェーデン船グリップスホルム号に乗込んだ。しかし殆ど最後の瞬間に、日本政府が或る米国人の引渡しを拒んだということから、米国側もこれに対応する措置として、吾々の交換船で帰国することになっていた一二日本人の乗船を許さないという面倒な問題が起ったという話で、予定の出帆が延期されることになったが、利益代表国スペインのカルデナス大使の三日に渉る奔走と、国務省側のブレンキンロッジ・ロング氏以下の立派な態度によって無事解決をみたので、交換船は6月18日夜半遂にニューヨークを出帆した。(中略)ロレンソ・マルケス滞留中ドイツ総領事、イタリー領事及び両国在留民は、一夕晩餐会を開いて自分達一行を歓迎してくれたが、行って見ると非常な盛宴で、土地柄を考え、物資不足の時節柄を考えて、よくかようなことが出来ると思って、私かに主催者側の一人に聞いてみると、在留独伊の人々が、皆約1週間分の配給を打込んで料理したのだということで、音楽をやる人も給仕をしてくれる人も、当時同港に待避していた枢軸側船舶の乗組員がサービスを提供してくれているのだという話であった。自分達は独伊の両領事始め在留の人々のこの心尽くしに対して非常な感謝に打たれつつ一夕の歓を尽したのである。』
ロレンソ・マルケスは、現在のモザンビーク、マプートである。この晩餐会は、7月24日に行われた。帰還者数は1,468名(ニューヨークから1,066人。リオ・デ・ジャネイロから383人。ほかタイ人19人。)とされている。タイ人は、途中昭南(シンガポール)で下船し、一部の軍人や新聞記者は空路日本へ帰国した者もいた。
第二次日米交換船帝亜丸は、インドのポルトガル領ゴアにて交換、1943年11月14日、横浜帰港。日英交換船は、龍田丸が 1942年8月27日〜9月2日:ロレンソ・マルケス寄港 1942年9月27日、横浜帰港 。鎌倉丸が1942年9月6日〜9月11日:ロレンソ・マルケス寄港 1942年10月8日、横浜帰港。この日英交換船では、オーストラリアで海軍葬にて葬られたシドニー湾攻撃の特殊潜航艇の乗組員4名の遺骨も帰国している。戦い最中であっても、このような事実があったことは忘れてはならない。(ウィキペディアなども参考とした)【了】
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 鈴木 修司【 愛知県 】
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日米間の外交官、その他の一時的居留民の交換引揚げにつきわが国より、浅間丸、コンテ・ヴェルテ号(イタリア船。開戦により帰国不能となり海軍で徴用していた)。米国よりクリップスホルム号をそれぞれ交換地、東アフリカのポルトガル領ロレンソ・マルケスに派遣した。3船は、7月23日交換事務を完了。26日正午、故国に向け一路帰航の途についた。同船には野村、来栖両大使以下約1500名の米州引揚者が乗船し、途中昭南島(シンガポール)に立寄り、一路平穏に8月20日午前横浜港へ入港した。
駐米大使来栖三郎の回顧録「泡沫の35年」には、以下のように記されている。
『自分達の一行は6月10日ホワイトサルファーを去って、翌11日正午ニューヨークで愈々スウェーデン船グリップスホルム号に乗込んだ。しかし殆ど最後の瞬間に、日本政府が或る米国人の引渡しを拒んだということから、米国側もこれに対応する措置として、吾々の交換船で帰国することになっていた一二日本人の乗船を許さないという面倒な問題が起ったという話で、予定の出帆が延期されることになったが、利益代表国スペインのカルデナス大使の三日に渉る奔走と、国務省側のブレンキンロッジ・ロング氏以下の立派な態度によって無事解決をみたので、交換船は6月18日夜半遂にニューヨークを出帆した。(中略)ロレンソ・マルケス滞留中ドイツ総領事、イタリー領事及び両国在留民は、一夕晩餐会を開いて自分達一行を歓迎してくれたが、行って見ると非常な盛宴で、土地柄を考え、物資不足の時節柄を考えて、よくかようなことが出来ると思って、私かに主催者側の一人に聞いてみると、在留独伊の人々が、皆約1週間分の配給を打込んで料理したのだということで、音楽をやる人も給仕をしてくれる人も、当時同港に待避していた枢軸側船舶の乗組員がサービスを提供してくれているのだという話であった。自分達は独伊の両領事始め在留の人々のこの心尽くしに対して非常な感謝に打たれつつ一夕の歓を尽したのである。』
ロレンソ・マルケスは、現在のモザンビーク、マプートである。この晩餐会は、7月24日に行われた。帰還者数は1,468名(ニューヨークから1,066人。リオ・デ・ジャネイロから383人。ほかタイ人19人。)とされている。タイ人は、途中昭南(シンガポール)で下船し、一部の軍人や新聞記者は空路日本へ帰国した者もいた。
第二次日米交換船帝亜丸は、インドのポルトガル領ゴアにて交換、1943年11月14日、横浜帰港。日英交換船は、龍田丸が 1942年8月27日〜9月2日:ロレンソ・マルケス寄港 1942年9月27日、横浜帰港 。鎌倉丸が1942年9月6日〜9月11日:ロレンソ・マルケス寄港 1942年10月8日、横浜帰港。この日英交換船では、オーストラリアで海軍葬にて葬られたシドニー湾攻撃の特殊潜航艇の乗組員4名の遺骨も帰国している。戦い最中であっても、このような事実があったことは忘れてはならない。(ウィキペディアなども参考とした)【了】
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