縁の下の力持ちから一気に主役を狙う遠藤<br>【photo by B.O.S.】

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 2007年アジアカップが7月7日開幕した。00年、04年と2連覇を果たした日本代表にとって、三連覇がかかった大会である。

「三連覇というのは、そう簡単にできるものじゃない。今回のチャンスを逃したら、また8年(アジアカップは通常4年毎に行なわれている。08年には北京五輪があるため、今大会は1年前倒しで実施された)かかるんだからね。そういう重さを感じて戦って欲しい」と、00年代表コーチとして戦った山本昌邦氏は、試合会場となるスタジアムで練習を終えた日本代表を見ながらそう語った。
 00年シドニー五輪直後にレバノンに乗り込んだ日本代表は快進撃を続け、タイトルを手にしている。そのときピッチに立ったメンバーで、今大会のメンバーの選ばれているのは、川口、中澤、中村(俊)の3名である。

 現代表の7年前に思いをはせたとき、一人の男のことが一番に頭に浮かんだ。遠藤保仁である。00年秋、シドニー五輪を戦うメンバーと共に彼はオーストラリアにいた。しかし、彼が五輪のピッチに立つ可能性はほとんどないに等しい。なぜなら、けが人が出た際のバックアップメンバーだったからだ。そのため、ベンチにも入れず、試合時にはスタジアムでチームメイトの戦いを観戦する立場でしかなかったのだ。

「あの時の悔しさは、多分一生忘れないと思いますよ」普段は温厚な遠藤だが、シドニーの話になると言葉に熱がこもる。とは言え、長々と話すわけではない。遠藤の悔しさは、その後、ガンバ大阪での成長ぶりを見ていれば、容易に理解できるだろう。

 02年ジーコジャパンが発足後、代表に名を連ねると、ほとんどの合宿や大会メンバーに彼は存在し続けた。試合出場数は少なくとも、遠藤の存在はジーコジャパンにとって、かけがえのないものだった。“ドーハの悲劇”を覚えているだろうか? 94年アメリカワールドカップアジア最終予選。最後の最後に失点したことで、ワールドカップの切符を逃した出来事だ。