今週のお役立ち情報
不易流行のマチ東京、都心を歩いて考えた(下)
2007年04月13日07時57分 / 提供:PJ
【PJ 2007年04月13日】−
(中)からのつづき。新橋には主要仕入れ先があり、夜ともなれば随所に出没した。クリスマスイブの晩、子どもに持ち帰るケーキを抱え込んで、麻雀屋に泊まる羽目になった。深更にまで及んだマージャンを愛宕署が聞きつけ、取り締まりに入ったのだ。巡回の警察官を避け、挙げ句は「徹マン」。翌早朝、ヒゲぼうぼうの大男数人が、ケーキ抱えて歩くさまはなかったろう。マージャンのない日は、そこら辺で夕食をとり、銀座のクラブに繰り出した。良い時代だった。皆、得意先の「ゴチ」だった。
夏も終わりのある日。西新橋の中華料理店で、定年近い友人の悩みを聞かされた。数カ月後、彼は精神病院の鉄格子の中で逝った。自死に近い状態だったと、夫人は嘆き、何もしてやれなかったことを、わたしは悔やんだ。有能そうに見えたが、激烈な人生を超越するには繊細すぎた。死んだ男と同期の営業マンは、その後出世。石油会社の会長から、経団連の副会長にまで上りつめた。有為転変とはこのことなのだろう。
都内唯一の屋外イベントスペースがある「日比谷シティー」一帯は、戦前から文化発信の地。日本放送会館(NHK)、富国生命ビル、日比谷図書館などと併せ、華やかな時期があった。戦後すぐ、GHQ(連合国軍総司令部)に接収された放送会館には、マッカーサー元帥下の米第8軍の情報部隊が進駐。40年代には、ハワイ生まれの従兄・ケンに会うために母と出かけた。60年代、富国生命ビル1階にあった「シュリロ・ラボ」には毎日のように通った。情報将校のケンはその後、ホノルル放送局に舞い戻り、死後パンチボウルに葬られた。「シュリロ」に行ったのは、ASPというソニーの子会社で、カメラマンの助手をしていたからだ。
銀座に柳があった時代。「銀座九丁目は川の上」だったころ。華やかなネオンは今ほどではなかったが、渋谷も新宿もイナカ。繁華街であっても、池袋も上野も怖くって出入りできなかった。当時も今も、安心で安全な場所はやはり銀座なのだ。四丁目の時計台は何時に変わらぬ姿でそびえ、有楽町付近もさほどの変化はない。あのころ、行動右翼の赤尾敏が、年中ここを拠点に過激な演説を叫んでいた。街宣車上の姿は猛々しかったが、白髪まじりの顔立ちには、えもいわれぬ愛嬌があった。
赤尾敏は昭和26年(1951)、親米反共の「大日本愛国党」を結成。後に社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢を門下に持つ人物。わたしは充分に知っていた。「そうかなるほど、わたしはノンポリ学生だった」と歩きながらつぶやいた。これは発見だった。時も人物も思想も変化するなかで、わたし自身の変化を確認できたからだ。少なくとも今であれば、行動右翼の演説に聞きほれることはあるまい。
「銀巴里」という名のシャンソン喫茶では、長崎出身の丸山明宏という美形の青年が人気者。青森から上京の男臭い工藤勉という歌手は、「ゴリラ」という奇妙なウタを得意としていた。丸山はその後、美輪明宏と改名。1990年12月、「銀巴里」は閉店した。日本の童謡をシャンソン風に歌う美人歌手の小海智子は、仏文学者の白井健三郎と結婚。後年、新宿の居酒屋で酒席を共にした。派手な喧嘩をする夫婦も数年前、故人となった。
戸川昌子は、渋谷の「青学」の裏に、シャンソンクラブ「青い部屋」を開業。わたしはピアノの伴奏で幾度も歌った。酔った戸川ママは何時も、「アンタ、顔のわりにウタ、うまいわねー」と冷やかした。夜目にも厚い化粧のせいか、若かったし元気そうに見えた。今も同様らしい。
「夢淡き町東京」は、わたしが歌うカラオケ・ナンバー・ワンソング。藤山一郎のさわやかな声と、歌詞に出てくる、「♪かがやくやーねは、セイロカカ」は、「輝く屋根は、聖路加か」のこと。「セイロカカ」の響きが好きだった。そのころ、銀座から築地明石町の聖路加病院が見渡せた。戦災の凄さを思い知らされたものだ。用意周到な米軍の戦略によって破壊をまぬかれた病院は、戦争終結の象徴。取引先の見舞いに行ったのは、改装直前のこと。内部のチャーチは、戦前のまま、実に見事であった。戦後11年間、米軍病院として接収されていた病院は、平成4年(1992年)に隣に移転した。
政治に関心を示さず、勉強はせず、バイトと演劇活動だけに精出したあの時代。社会人になってからも出入りを重ねたこのマチ。これからどう変わってゆくのだろうか。この日、わたしは、昔変わらぬ「スエヒロのハヤシライス」を食べなかった。また来たかったからだ。帰途、日比谷線の構内で、カンタス航空の電飾看板をみた。眠って行けるビジネスクラスの案内だ。サラリーマンが、ビジネスクラスの乗れる時代になったんだ…。日本は豊かになった。でも何かが失われたな。そう思った。かくして、わたしのセンチメンタル・ジャーニーは、地下鉄銀座駅で終わった。【了】
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※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。
パブリック・ジャーナリスト 今藤 泰資【 茨城県 】
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夏も終わりのある日。西新橋の中華料理店で、定年近い友人の悩みを聞かされた。数カ月後、彼は精神病院の鉄格子の中で逝った。自死に近い状態だったと、夫人は嘆き、何もしてやれなかったことを、わたしは悔やんだ。有能そうに見えたが、激烈な人生を超越するには繊細すぎた。死んだ男と同期の営業マンは、その後出世。石油会社の会長から、経団連の副会長にまで上りつめた。有為転変とはこのことなのだろう。
都内唯一の屋外イベントスペースがある「日比谷シティー」一帯は、戦前から文化発信の地。日本放送会館(NHK)、富国生命ビル、日比谷図書館などと併せ、華やかな時期があった。戦後すぐ、GHQ(連合国軍総司令部)に接収された放送会館には、マッカーサー元帥下の米第8軍の情報部隊が進駐。40年代には、ハワイ生まれの従兄・ケンに会うために母と出かけた。60年代、富国生命ビル1階にあった「シュリロ・ラボ」には毎日のように通った。情報将校のケンはその後、ホノルル放送局に舞い戻り、死後パンチボウルに葬られた。「シュリロ」に行ったのは、ASPというソニーの子会社で、カメラマンの助手をしていたからだ。
銀座に柳があった時代。「銀座九丁目は川の上」だったころ。華やかなネオンは今ほどではなかったが、渋谷も新宿もイナカ。繁華街であっても、池袋も上野も怖くって出入りできなかった。当時も今も、安心で安全な場所はやはり銀座なのだ。四丁目の時計台は何時に変わらぬ姿でそびえ、有楽町付近もさほどの変化はない。あのころ、行動右翼の赤尾敏が、年中ここを拠点に過激な演説を叫んでいた。街宣車上の姿は猛々しかったが、白髪まじりの顔立ちには、えもいわれぬ愛嬌があった。
赤尾敏は昭和26年(1951)、親米反共の「大日本愛国党」を結成。後に社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢を門下に持つ人物。わたしは充分に知っていた。「そうかなるほど、わたしはノンポリ学生だった」と歩きながらつぶやいた。これは発見だった。時も人物も思想も変化するなかで、わたし自身の変化を確認できたからだ。少なくとも今であれば、行動右翼の演説に聞きほれることはあるまい。
「銀巴里」という名のシャンソン喫茶では、長崎出身の丸山明宏という美形の青年が人気者。青森から上京の男臭い工藤勉という歌手は、「ゴリラ」という奇妙なウタを得意としていた。丸山はその後、美輪明宏と改名。1990年12月、「銀巴里」は閉店した。日本の童謡をシャンソン風に歌う美人歌手の小海智子は、仏文学者の白井健三郎と結婚。後年、新宿の居酒屋で酒席を共にした。派手な喧嘩をする夫婦も数年前、故人となった。
戸川昌子は、渋谷の「青学」の裏に、シャンソンクラブ「青い部屋」を開業。わたしはピアノの伴奏で幾度も歌った。酔った戸川ママは何時も、「アンタ、顔のわりにウタ、うまいわねー」と冷やかした。夜目にも厚い化粧のせいか、若かったし元気そうに見えた。今も同様らしい。
「夢淡き町東京」は、わたしが歌うカラオケ・ナンバー・ワンソング。藤山一郎のさわやかな声と、歌詞に出てくる、「♪かがやくやーねは、セイロカカ」は、「輝く屋根は、聖路加か」のこと。「セイロカカ」の響きが好きだった。そのころ、銀座から築地明石町の聖路加病院が見渡せた。戦災の凄さを思い知らされたものだ。用意周到な米軍の戦略によって破壊をまぬかれた病院は、戦争終結の象徴。取引先の見舞いに行ったのは、改装直前のこと。内部のチャーチは、戦前のまま、実に見事であった。戦後11年間、米軍病院として接収されていた病院は、平成4年(1992年)に隣に移転した。
政治に関心を示さず、勉強はせず、バイトと演劇活動だけに精出したあの時代。社会人になってからも出入りを重ねたこのマチ。これからどう変わってゆくのだろうか。この日、わたしは、昔変わらぬ「スエヒロのハヤシライス」を食べなかった。また来たかったからだ。帰途、日比谷線の構内で、カンタス航空の電飾看板をみた。眠って行けるビジネスクラスの案内だ。サラリーマンが、ビジネスクラスの乗れる時代になったんだ…。日本は豊かになった。でも何かが失われたな。そう思った。かくして、わたしのセンチメンタル・ジャーニーは、地下鉄銀座駅で終わった。【了】
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