雪山の魅力とアクシデント=八ヶ岳・硫黄岳の山行より(下)
2007年04月08日04時57分 / 提供:PJ
(中)からのつづき。硫黄岳(2760メートル)の直下のアイスバーンで転倒し、東側の断崖に落ちると、数秒にして加速度がついた。滑落しながらも、うつ伏せの姿勢をとる。ピッケルのヘッドを右手で持ち、左手でシャフトを持ち上げる。
制動は思うように利かない。顔を雪面に押し付けるように、上半身のすべての体重をピッケルのピック(先端)にかける。それでも、切り立つ断崖ではからだが荒々しく落ちていく。
ゴアテックスのヤッケは雪面でよく滑る。雪がまるで油面のようだ。雪の凹凸でからだが激しくバウンドする。突き刺したピックが左右に流れてしまう。生死を分ける境目に立たされた。からだはなおも止まる気配がない。樹林帯の突入し、雪が柔らかくなったところで、両足の先端をもつかった制動が利いた。
約200メートルの滑落だった。すぐ行動に移ると、精神的な動揺から身体のバランスが悪く、両足が縮こまり、再度の転落に見舞われてしまう。過去の滑落経験から、それはわかっていた。その場で10分間ほど気持ちを鎮めさせた。滑落時に携帯電話、帽子、サングラスをつけたメガネを失っていることに気づいた。雪に埋まった携帯電話など探せないし、転落ルートをもどる気すらなかった。他方で、通信手段がなくなってしまったのだ。
トラバース(横移動)し、やがて登山道ルートの稜線に出てきた。滑落した地点まで戻ってみたが、肥田野さんの姿はなかった。『後を追って、探しに降りてきていないだろうな』と不安になった。軽アイゼンではとても下り切れる断崖ではなかったからだ。
『仲間を見失ったらならば、山頂に登って確認する』という鉄則がある。酷寒の硫黄岳山頂へと重い足取りでふたたび登ってみた。肥田野さんの姿はなかった。今度は夏沢峠(2440メートル)まで下り、次の策を考えていた。
後で聞いた話だが、肥田野さんはアクシデントの発生後について「最初はすこし動揺しましたが、つとめて冷静を保つよう自分に言い聞かせ、一つひとつの行動を慎重に、危険を最大限防ぐよう心がけました。携帯電話の通じる場所に移動しました。呼び出しコールは続くけれど、出ない。ここは出来るだけ早く、私よりも経験のある方に、指示を仰がなくては、と思って(本沢温泉小屋、標高2100メートル)に出向いて、所沢の男性と山小屋の人の力を借りました」と話す。
肥田野さんが依頼したのは午後1時前で、早めの適切な対処だった。アクシデントの発生後、どの段階で救助の手をたのむか。昼間の明るいうちならば、広範囲に探せる。日没の頃になると、捜索隊を編成しても二重遭難を避けるために、翌日からの行動になることが多い。遭難者のほうは一夜のビバークもままならず、凍死状況に陥ったりするものだ。
他方で、肥田野さんには単独行の経験はない。滑落発生場所から本沢温泉に出向くルートについて、「かつて教わった地図やコンパスの見方、ケルンの存在などが実感として役に立ちました。もし、何も知らない状況下で、あの状況に立たされたら、動揺して適切な対応を取れなかったかもしれません」と話す。基本知識の積み重ねの重要性を語る。
夏沢峠の近くで、双方の大声が確認できた。肥田野さん、救助に駆けつけてくれた所沢の男性、本沢温泉小屋の従業員の方、あわせて4人が合流した。本沢温泉小屋に到着したのは午後2時ころだった。雪面をこすった顔はボクサーのように腫れており、従業員の方が消毒の手当てをしてくれた。
肥田野さんのアドバイスもあり、帰宅後、近くの医大の夜間・急患で、診てもらった。脳神経外科医がCT検査をしてくれたが、頭蓋骨などに異常はなかった。整形外科でも骨に異常なし。左足の関節のじん帯はやや傷めていた。案じた眼科も異常なし。
全身に裂傷などないが、顔面のかすり傷には泥がかなり付着していたので、破傷風の注射をうたれた。どの科からも、鎮痛剤や内服薬などの投薬はなく、軽傷だった。
登山はビギナー、ベテランを問わず、つねにリスクと背中合わせだ。今回の硫黄岳アクシデントから、反省点をあげてみたい。転倒の直接の原因は、アイスバーンの上で軽アイゼンの操作を誤ったことによる。ひとつ反省を深めれば、雪山は安定度の高い10本爪とか12本爪とかのアイゼンを使うべきだった。
さらにさかのぼれば、都会で得る雪山情報は曖昧、いい加減なものが含まれていると認識しておくべきだった。現地の山小屋や市役所の担当などから、より正確な情報を取ることである。
春山登山の技法としては、雪山ルートの選び方、アイゼンやピッケルを使った歩行方法、ビバークの仕方、気象の読み方などがある。PJが体験したような、他人のアクシデントの実例を知ることも、登山知識の豊富さにつながる。それらを踏まえた、より安全な登山で、雪峰の風景を楽しんでもらいたい。【了】
■関連情報
記者HP:穂高健一ワールド
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制動は思うように利かない。顔を雪面に押し付けるように、上半身のすべての体重をピッケルのピック(先端)にかける。それでも、切り立つ断崖ではからだが荒々しく落ちていく。
ゴアテックスのヤッケは雪面でよく滑る。雪がまるで油面のようだ。雪の凹凸でからだが激しくバウンドする。突き刺したピックが左右に流れてしまう。生死を分ける境目に立たされた。からだはなおも止まる気配がない。樹林帯の突入し、雪が柔らかくなったところで、両足の先端をもつかった制動が利いた。
約200メートルの滑落だった。すぐ行動に移ると、精神的な動揺から身体のバランスが悪く、両足が縮こまり、再度の転落に見舞われてしまう。過去の滑落経験から、それはわかっていた。その場で10分間ほど気持ちを鎮めさせた。滑落時に携帯電話、帽子、サングラスをつけたメガネを失っていることに気づいた。雪に埋まった携帯電話など探せないし、転落ルートをもどる気すらなかった。他方で、通信手段がなくなってしまったのだ。
トラバース(横移動)し、やがて登山道ルートの稜線に出てきた。滑落した地点まで戻ってみたが、肥田野さんの姿はなかった。『後を追って、探しに降りてきていないだろうな』と不安になった。軽アイゼンではとても下り切れる断崖ではなかったからだ。
『仲間を見失ったらならば、山頂に登って確認する』という鉄則がある。酷寒の硫黄岳山頂へと重い足取りでふたたび登ってみた。肥田野さんの姿はなかった。今度は夏沢峠(2440メートル)まで下り、次の策を考えていた。
後で聞いた話だが、肥田野さんはアクシデントの発生後について「最初はすこし動揺しましたが、つとめて冷静を保つよう自分に言い聞かせ、一つひとつの行動を慎重に、危険を最大限防ぐよう心がけました。携帯電話の通じる場所に移動しました。呼び出しコールは続くけれど、出ない。ここは出来るだけ早く、私よりも経験のある方に、指示を仰がなくては、と思って(本沢温泉小屋、標高2100メートル)に出向いて、所沢の男性と山小屋の人の力を借りました」と話す。
肥田野さんが依頼したのは午後1時前で、早めの適切な対処だった。アクシデントの発生後、どの段階で救助の手をたのむか。昼間の明るいうちならば、広範囲に探せる。日没の頃になると、捜索隊を編成しても二重遭難を避けるために、翌日からの行動になることが多い。遭難者のほうは一夜のビバークもままならず、凍死状況に陥ったりするものだ。
他方で、肥田野さんには単独行の経験はない。滑落発生場所から本沢温泉に出向くルートについて、「かつて教わった地図やコンパスの見方、ケルンの存在などが実感として役に立ちました。もし、何も知らない状況下で、あの状況に立たされたら、動揺して適切な対応を取れなかったかもしれません」と話す。基本知識の積み重ねの重要性を語る。
夏沢峠の近くで、双方の大声が確認できた。肥田野さん、救助に駆けつけてくれた所沢の男性、本沢温泉小屋の従業員の方、あわせて4人が合流した。本沢温泉小屋に到着したのは午後2時ころだった。雪面をこすった顔はボクサーのように腫れており、従業員の方が消毒の手当てをしてくれた。
肥田野さんのアドバイスもあり、帰宅後、近くの医大の夜間・急患で、診てもらった。脳神経外科医がCT検査をしてくれたが、頭蓋骨などに異常はなかった。整形外科でも骨に異常なし。左足の関節のじん帯はやや傷めていた。案じた眼科も異常なし。
全身に裂傷などないが、顔面のかすり傷には泥がかなり付着していたので、破傷風の注射をうたれた。どの科からも、鎮痛剤や内服薬などの投薬はなく、軽傷だった。
登山はビギナー、ベテランを問わず、つねにリスクと背中合わせだ。今回の硫黄岳アクシデントから、反省点をあげてみたい。転倒の直接の原因は、アイスバーンの上で軽アイゼンの操作を誤ったことによる。ひとつ反省を深めれば、雪山は安定度の高い10本爪とか12本爪とかのアイゼンを使うべきだった。
さらにさかのぼれば、都会で得る雪山情報は曖昧、いい加減なものが含まれていると認識しておくべきだった。現地の山小屋や市役所の担当などから、より正確な情報を取ることである。
春山登山の技法としては、雪山ルートの選び方、アイゼンやピッケルを使った歩行方法、ビバークの仕方、気象の読み方などがある。PJが体験したような、他人のアクシデントの実例を知ることも、登山知識の豊富さにつながる。それらを踏まえた、より安全な登山で、雪峰の風景を楽しんでもらいたい。【了】
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パブリック・ジャーナリスト 穂高 健一
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