池田秀一氏

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池田秀一氏が執筆した、シャアとガンダムの全てを語る初の自伝「シャアへの鎮魂歌〜わが青春の赤い彗星〜」が2006年12月22日に発売された。定価は1,365円(税込)。

「シャアへの鎮魂歌〜わが青春の赤い彗星〜」は、シャア・アズナブルを演じた池田秀一氏しか書けない「真実」のガンダム・ストーリー。1979年にテレビ放映された「機動戦士ガンダム」で登場するシャアとの運命的な出会いから、最新作の「劇場版・Zガンダム 3部作」まで、シャアとともに生きた27年間を余すことなく語られている。

シャア役の池田秀一氏に執筆の思いと、著書には書かれていないアニメ作品への思いを熱く語っていただいた。

Q:「シャアへの鎮魂歌」を書かれるきっかけは何だったのでしょうか。
本当は本を書くことなんてめっそうもないことで、全然そういう気はありませんでした。しかし、書きませんかというお話をいただいて考えてみたんです。

僕はシャア・アズナブルという人間と出会って30年近くたつけれども、自分の人生に対しても大きな出会いでした。ですから、シャア・アズナブルという人間との出会いを軸にして、「機動戦士ガンダム」という作品で僕が出会った方々のことを書くことができれば思って書かせていただいたんです。
最初にお話をいただいてから、いろいろと試行錯誤をして書き終えるまでに1年くらいかかってしまいました。それと平行して劇場版「機動戦士Zガンダム」をやっていましたので、ちょうど歩調を合わせるような感じでしたね。

僕なりのシャア・アズナブル、もう少し大きくいうと「ガンダムワールド」という30年たってもまだ色あせずに、皆さんから注目を浴びている「ガンダム」というのは一体何なのだろうかということを、シャア・アズナブルを演じていた僕の視点から表現できるかなと思って、生意気にも書かせていただきました。

Q:「シャアへの鎮魂歌」という題名ですが、そのテーマは何でしょうか。
「鎮魂歌」という意味では、亡くなった方々への鎮魂という意味はもちろんですけれども、かつてこういう人たちがいたんだよ、こういう人たちがいたからこそ、現在の「ガンダム」があるんだよという気持ちです。

今、アニメブームといいますか、夜中も含めて1週間に何十ものアニメが放送されている時代ですが、かつてこういうやつらもいたことを少しは覚えておいていてくれというような気持ちですね。
また、声優を目指す人たちへの応援歌でもありますし、声優の仕事はそう甘いものではないというメッセージも少しは含まれています。

Q:本を出されるタイミングは考えられたのでしょうか。
偶然といえば、偶然だと思います。お話をいただいたときに、劇場版の「機動戦士Zガンダム」を20年ぶりにやって、それを成し終えたというか、終わったということからも、僕自身もこれからガンダムとどのようにかかわっていくか分かりませんが、一つの区切りという意味でいいタイミングだったのではないでしょうか。

Q:著書の序章で声優の出発点について語られていますが、声優というものに戸惑いなどはありましたか。
今は声優としてくくられていますけれども、元来声優さんという方はアニメに限らず洋画の吹き替えをされている方も、アニメの創世記のころは映画から入ってきた人たちだとか、舞台から入ってきた人たちがやっていました。ですから声優専門という人はかつてはいなかったわけです。最近は声優の養成学校があって、そこを卒業された方が多いかもしれませんね。

僕がシャア・アズナブル、「機動戦士ガンダム」というものに出会ったときは、アニメの声優としては素人だったわけです。でも、27年たった今、考えてみると、素人だったことが良かった気がします。ゼロからの出発だったので、無駄な予備知識はなかったし、ごまかすことができなかったですから。でも今は、多少ごまかしてしまいますけどね(笑)。

Q:最近は、声優の方々に混じって役者の方々がキャラクターの声をあてるようになりましたが。
僕は、作品はアンサンブルだと思うんです。例えば、我々でいうところの顔出しの役者さんたちが声優部門でやるというのは、その人たちだけでやればいいんですよね。それで成功している作品もあると思います。声の仕事を生業としている人たちと、声の仕事をやったことのない人たちが一緒になると、余りうまくいっていないように見えますね。

芝居がどっちがうまい、下手というわけではなくて、先ほどもいいましたように作品はアンサンブルだから、「朱に交われば赤くなれ」ではありませんが、そのあたりのバランスをうまく保ち、スッと入れる人もいらっしゃるだろうけれども、交わることができない人もいるわけで、そのあたりが難しいのではないかと思います。

洋画のアテレコなどでも、スターの役者さんを一人か二人使ってという作品もあるわけで、僕もそういう洋画の吹き替えをしていても、大体そういう役者の方々は我々とは別の日に収録するわけです。別録りということは、誰とも絡まないわけです。それは絡んでしまうと時間がかかるという問題もありますし、そういう人たちは集中して一人で録った方が良いという考えもあります。それがダビングで重なり合ったときにうまくいって成功している例もありますが、総じて余りかみ合っていないという感じがします。

Q:声優業のほうが役者業より長くなられた池田さんにとって、アニメはどのような存在なのでしょうか。
僕が最初にアニメと出会ったとき、実写の映画というのは撮影できないものが沢山ありました。例えばアニメは、顔に近づいていって、顔から目玉に入って、目玉から体の奥まで入っていくという映像が作れるわけですよね。当時の実写映画ではそれが撮れなかったわけです。目玉の奥には入れない。アニメではそれができてしまうというのは、すごい可能性を持っているなと30年くらい前は感じました。

だから、イメージさえあれば幾らでも作ることができる可能性というものをすごく感じましたね。ただ、当時のテレビアニメではお金もなかったし、時間もなかったのでやらなかったのですけれど、技術的な可能性は高く、これからすごいんじゃないかなと思っていました。今では、実写映画もCGを使ってすごくなってしまいましたね(笑)。

Q:1章と2章でシャアについて語られていますが、初めて出会ったときは衝撃のようなものがあったのでしょうか。
当時は、それほど大きなものではないと思いますが、今思うとそういうことかもしれませんね。キャラクター表がポンと置かれていて、そこに彼がいたということなんだけれども、若い娘が恋愛で理想の男性とめぐり会って電気が走ったとか、ビビッと感じたとかいいますけれども、そんな大げさなことではないのですが、ピンときたという感じです。

Q:演じられるキャラクターをどのように作り上げていくのでしょうか。
僕は、演じるキャラクターを好きになるようにしています。余り嫌な奴を演じたことがないのですが、万が一、嫌な奴だったとしても演じるからには、僕なりにそのキャラクターを好きになってから演じます。

昔、淀川長治さんが「日曜洋画劇場」の解説をされるときに、何本かに一本はつまらない映画があり、でも解説しなければならない。そのときは、「いい映画だ、いい映画だ」と思いこませて解説をすると、どこか良いところを見つけるんだと、淀川さんがおっしゃっていていたんです。確かにそうだと思いました。

例えば、殺人者の役をしたとしても、なぜ殺すのかという殺す理由が本に書かれてなくても、僕には欲しいですよね。今日は面白くなかったから、ただ暑かったから殺しちゃったよというように描かれていたとしても、自分でその役を演じるときには、なぜその暑さが嫌だったんだろうか、子供のときにどんな体験をしたのだろうか、暑い夏に何か親にいじめられたとか、ひっぱたかれたとかというトラウマのようなものがあって、それは本筋とは関係ないし、監督も要求されていないけれども、自分で作ってしまいますね。キャラクターの深層心理まで入り込んでしまうんです。

今では、一つの作品としてそこまで描いている時間がないという作品が多いですよね。でも、自分が演じる場合には、自分なりに作っていってしまう。監督に「何考えてるんだ」といわれたら訂正すればいいんであって、それを何もいわれないのであったら、それなりに何か作っていきます。

Q:では、シャアの役を演じるにあたって心の奥まで入り込んだのでしょうか。
シャア・アズナブルという人物は、僕にとっては入りやすかったというか、余り何も考えずに演じました。先ほど嫌な奴は掘り下げるといいましたけれども、それと矛盾するのですが、そういうものを作らなくてもふっと入ることができるキャラクターでしたね。後々しることですけれども、無理矢理この人の過去はどうのこうのとか、彼がなぜ仮面をかぶっているかという理由をしらずに、僕はずっと演じていました。今思えば、シャアは作り上げていかなかったことが良かったんだと思います。

例えば、僕が全部設定を聞いていて、最初から父親が暗殺されていて、その復讐心に燃えていたというイメージを監督からいわれていたら、第1話は全く違った演じ方になっていたと思うんです。だからあえて監督がそういう情報を僕に伝えなかったのかもしれませんね。シャアの初回の登場シーンというのは、あの時点では復讐心に燃えているというわけではないんですよ。そういう方が良い。見ている方も「何なんだコイツは!?」というふうに思うということは、彼自身も「何なんだコイツは!?」というと思っていた方が良いですよね。

僕がラッキーであったのは、アムロ・レイという少年が第1話でガンダムとめぐり会い、操縦マニュアルを見て「これ動くぞ」と。またフラウ・ボゥの両親が殺されて、というシーンがあるわけです。一方、シャアの方になると冷静でいるわけですよ。その対比というかその描かれ方が、アムロが高揚すればするほど、シャアは落ち着けるわけですよね。一緒になって「あれはどうした」「認めたくない!」といってしまってはダメだと思うんです。僕は直感的にそう思ったんです。彼はフカンで見ているというか、そういうポジションにいるべきだと感じたんです。

演じていて、これでいいのかなと思ったのですが、監督からもダメ出しがなかった。自分が感じたままのシャア・アズナブルというポジションでいいのかなと第1話を録っているときに感じました。そして、しばらくやっているうちにそのままのポジションでキャラクターが固まってきたというか、富野監督も放っておいてくれましたね。

Q:「坊やだからさ」というセリフは、どのように演じようと思われたのでしょうか。
自然と演じましたね。自然と演じることができたというのは、それは本が良いからですよ。ギレンがあれほどキャーギャーと、シャアにすれば「何、バカなことをほえているんだ」と、それでポンと何も考えずに出てくるわけですよね。シャア自身も飲みながら、あんなセリフをギレンがいうとは思っていないわけですよ。だから「坊やだからさ」と自然と出てきたんのですよね。それはやっぱり本の良さです。

Q:池田さん自身が年齢を重ねることによって、シャアの演じ方は変わるものなのでしょうか。
余り考えたことはないのですが、例えば「機動戦士Zガンダム」に出させていただいて、20年ぶりに劇場版を録ったわけですが、20年前に戻れといわれてもそれは無理なことであって、逆に20年たった今だからこそ演じることができるクワトロ・バジーナであり、シャア・アズナブルであるわけです。「ドラえもん」とか「サザエさん」のような作品は20年たっても変わらない方が良いですよね。でもシャアは、無理に合わせようとするわけではなく、前と同じことをやっても意味がないと僕は感じました。

話は少し変わりますが、この間、井上陽水さんのコンサートをテレビで見ていて、僕と同世代なのでファンなんですけれども、曲のイントロが僕がしっているイントロと違うんですよ。「この曲、何の曲?」と思っていたら、歌い出してみるとなんだこの曲かと。昔のイントロじゃ意味がないわけですよ。彼自身もそれを感じているわけですよね。

僕は昔のイントロを求めるわけです。そのイントロで、あのとき何をしていたか、どんな娘に恋をしていたかを思い出す。で、「そのイントロはどうしちゃったの?」と最初は違和感を抱くんだけれども、でもこれもありかなという、これ良いね。これ面白いね。「そうか、井上陽水さんは年を経て、この歌に対して、こういうイントロで、こういうアレンジをやってくるんだ」というふうに思ったときに、じゃあおれたちも、ガンダムをもう一度DVDか何かでやることになったときに、別に昔の役をやらなくてもいいんだなという。

曲自体を変えるわけにはいかないけれども、イントロであれ、アレンジであれ、リズムの刻み方であれ、そういうことによって同じセリフでも、同じ曲でも違うもの、違う響き、それでもいいのかなと。まさに20年後の「機動戦士Zガンダム」劇場版は、アレンジされた作品なんですよね。20年前のTVシリーズと歌詞は変えていないけれども、アレンジが違うよという作品になっていたと思うんです。

Q:では、「シャア」という人物からから脱したいと思ったことはありますか。
今は脱却しましたけれども、ありましたね。もうそれは逃れられないものです。今でも「すいませんが、シャアの感じでやってください」ということは結構多いですから。それはそれでいいんですよというふうに最近は思いますね。

僕はそんなに引き出しを持っていませんから、空にしたら風邪をひいてしまうという感じです(笑)。でも引き出しは多い方にこしたことはないでしょう。徹ちゃん(アムロ・レイ役の古谷徹氏)は徹ちゃんで、アムロでやってくださいというようなことがあるだろうし、それは感じ方の問題であって、アムロでやってください、シャアでやってください、といわれることがひょっとすると幸せかもしれません。「この役でやってください」といわれない人が9割なわけですからね。だから「君の生まれの不幸を呪うがいい」じゃないけれども、シャアと出会ったことを呪ってはいけないんですよね。自分を代表するキャラクターに出会うことができる方は1割もいないのですから。

でも、ガンダムという作品自体がいろんな意味でラッキーだったんですよね。あとがきで書きましたけれども、「みんなが何かに飢えている時代だった」と。宇宙世紀0079に監督、スタッフ、声優方でもそうだったんです。そういうものがうまく合致して、ある意味ではラッキーともいるし、逆にいえば今はそういう時代になりにくい。ガンダムのような作品が、今は生まれにくい。ガンダムから30年たっているわけですから、本当はもっと何か別の作品が出てこなければいけないんですよね。だから大仰にいえば、もうみんな飢えていないのではないでしょうか。