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孫文と神戸。

【PJ 2006年12月20日】− 中国の革命家、孫文の名を知っている人は多いだろう。中学、高校の歴史の教科書に必ず出てくる名前である。もっとも、最近ではそれさえ履修しない人が多いらしいので、いささか心もとないのだが。

 孫文は、号を中山または逸仙という。清朝末期に、広東省で生まれた。ハワイの兄を頼って留学し、西洋思想に目覚める。帰国後、医師をしていたが、革命思想に目覚め、ハワイで興中会を組織する。以後、広州蜂起の失敗など挫折も経て、世界各地を巡って清朝打倒のために尽くした。この頃から、日本にもしばしば立ち寄り、松形幸次郎や宮崎 滔天らと親交を深めた。

 1911年、武昌蜂起から辛亥革命が起こった。孫文が亡命先から帰国すると、民衆は熱狂して彼を迎えた。翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国政府が、南京に成立する。

 しかし当時の中国は、各地に軍閥が割拠する戦国時代のような様相を呈していた。孫文は、「三民主義」を唱えた思想家でもあったが、彼の理想だけで、国を治めていくことは難しかった。そのため彼は、軍閥の巨頭である袁世凱に大総統の座を譲るが、袁は自ら皇帝に即位しようとするような権力欲の強い人物で、革命は逆行してしまう。袁の軍事力に敗れた孫文は日本に亡命する。袁の死後、再び広州に戻り、中国の統一のために尽力するが、志半ばで世を去ってしまう。

 孫文は前述したように日本とも縁が深く、何度も来日しているが、とくに神戸には都合18回も訪れているとされている。神戸は、横浜と並ぶ当時の海運の拠点であり、華僑も多かったからであろう。

 孫文を支援した神戸の華僑に、呉錦堂がいる。呉は1885年に長崎に渡航し、大阪、神戸で海運業を営んで巨富を築いた。彼が神戸に建てた別荘が松海荘であり、その別館として、移情閣が建てられた。大正の名建築の1つとして、国の重要文化財に指定されており、地元では永らく、舞子の六角堂として親しまれてきた。

 現在はこの建物は、「孫文記念館」となっており、多くの観光客が訪れるスポットとなっている。もっとも孫文自身は、1913年に松海荘で行われた中国人実業家や地元の財界人との午餐会に出席しているが、移情閣完成後にそこを訪れたという記録はない。

 孫文が最後に神戸を訪れたのは、死の前年の1924年である。このとき、11月28日に神戸高等女学校の講堂(現在、跡地は兵庫県庁となっている)において、有名な「大アジア主義」についての講演を行っている。

 アジア主義とか大アジア主義というのは、簡単に言えば、アジア諸国が連帯して欧米の植民地支配に対抗しようという考えである。日本にも、同様の考えを持つ人は少なくなかった。しかし、日清日露両戦争に勝利によって本格的な大陸進出を図る日本においては、アジア主義とは日本の軍事力によるアジア統一だと、理解する人間も少なからずいた。

 アジア主義についての講演を依頼された孫文は、その最後をこうしめくくった。

 貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。
                                 「孫文選集」より

 簡単に言うと、日本が覇道すなわち武力によってアジア諸国を侵略しようとするのか、王道すなわち理想や徳の力によってアジアの連帯をはかるのか、日本国民自身が選択しなければならないことだ、というのである。
 
 のちの歴史の経過を知っている立場からすれば、この孫文の指摘は、限りなく重い。結局日本は、かつて覇道を選んで失敗し、そして現在も同じ選択を迫られているように見えるからである。【了】

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パブリック・ジャーナリスト 宮下 隆二【 兵庫県 】
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