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「OTAふれあいフェスタ」の平和島物語(下)=東京 

「OTAふれあいフェスタ」の平和島物語(下)=東京 
大田区・平和島競艇場での第17回「OTAふれあいフェスタ」みこしパレード(撮影:伊藤昭一、12日)
【PJ 2006年11月14日】− (上)からのつづき。一方、平和島競艇場を開放しての水のエリアは12日、好天にめぐまれ、競艇ボート試乗会やステージの木やり、みこしパレードなどが披露された。また、秋田県、長野県などの友好都市の「名産物買い物ストリート」。アフリカ、ベトナム、韓国などの料理や雑貨の「国際交流ストリート」では、普段見慣れないフードが盛り沢山。家族連れは、祖父母から孫まで異国の珍味を食べる楽しさを満喫していた。

歴史に見る平和島と勝島の関係
 実はこの平和島、意外と知られていない歴史が埋もれている。平和島の北方の品川区には、勝島という名の埋め立て地がある。浜松町と羽田を結ぶ東京モノレールはこの両地域の頭上を通過している。「平和」と「勝つ」という文字で推測される通り、この二つの地名は太平洋戦争の影響をうけて名付けられたものである。

 かつて、ここは、大森海岸海水浴場にもなった浅海であった。それを人工島にするのに埋め立てを開始したが、戦争で中止された。昭和17年、そこに米、英、カナダ、オーストラリアの連合軍捕虜収容所が作られた。捕虜は300人から500人いたらしい。捕虜の労役で昭和18年に「勝島」の埋め立て地ができた。日本もまだ、戦意高揚していた時代であったので「勝島」と命名したのだという。

 その後、米軍の大空襲があったが、捕虜収容所は爆撃されなかった。本土情報をよく把握していたようだ。日本の敗戦が決まった昭和20年8月には、この収容所の沖合に米軍艦が姿を現し、566人の連合軍捕虜が歓喜の声を挙げたという(参照=西村敏康著「学校裏から始まった」ハーツ&マインズ発行より)。

 昭和41年、京浜第2区埋め立て地として大田区に編入、対岸の大森本町と大森東の海面が埋め立てられた。それ以前に平和島の名がついたようだ。地元のある老人は「捕虜収容所のあと、いろいろなことがあって、いつの間にか、その名がついていたのだな」という。多くを語ることはなかった。捕虜収容所は、その後、戦犯とされた東条英機ら将校の一時収容所になっていたことを考えると、当時、戦争否定と平和希求の気持ちを強める何かがあったのであろう。

 現在でこそ、東京国際マラソンの折り返し点であり、競艇場、公園、トラックターミナル。さらに「OTAふれあいフェスタ」での家族団らん、交流のボランティアの活躍する場となった平和島であるが、その名称には、はっきりとした戦争の反語としての意味が込められているのだった。【了】

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パブリック・ジャーナリスト 伊藤 昭一【 東京都 】
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