愛知県で開かれている現代アートの祭典で展示作品の内容に反発が広がり、主催者側は「安全確保のため」公開中止に踏み切った。同イベントの芸術監督である津田大介氏は中止決定を受けて謝罪会見を行ったが、なぜこんな事態を招いてしまったか。橋下徹氏が原因を分析、どうすれば成功できたかをアドバイスする。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(8月6日配信)から抜粋記事をお届けします。

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■公金を使う以上「なんでも自由に」とはならない

8月3日、現代アートの大規模な祭典「あいちトリエンナーレ2019」の一環として公開されていた「表現の不自由展・その後」という展示が、地元の河村たかし名古屋市長や現役閣僚を含む各方面からの批判を受け、公開中止に追い込まれた。問題視されたのは、韓国人彫刻家の手による「平和の少女像」と昭和天皇の肖像を傷つけた形の作品。あいちトリエンナーレの芸術監督はジャーナリストの津田大介さんだが、彼は何を誤ったのか。本メルマガ《問題解決の授業》の観点から、どうすればこの展覧会を成功に導くことができたかを考えてみたい。

写真=時事通信フォト
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」について記者会見する、芸術監督を務めるジャーナリストの津田大介氏=2019年8月2日、名古屋市東区の愛知芸術文化センター - 写真=時事通信フォト

僕は津田さんとは面識はないが、彼が政治に対しては色々と評論をしていたことは知っている。津田さんは今回の件で、評論と実行がいかに異なるものか、評論はいかに楽で、実行はいかに大変かを認識したと思う。普段、偉そうに評論していても、自分が実行するとなると、とんでもない壁にぶち当たる。言うは易く行うは難し、である。

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今回は、公金を活用するイベントだ。確かに問題の展示に投じられた公金は400万円ほどであったとの報道もあるが、展示はイベント全体の格によって発信力が左右される。ゆえにイベント全体の予算を考慮せざるを得ず、その額は億を超える大金だ。公金を活用する以上細心の注意を払わなければならない。これは政治家を経験すれば痛切に感じることだ。たとえ数百円でもいい加減に使えば、厳しい批判を受ける。

今は、芸術という大義名分を振りかざせば、何とでもなる時代ではない。そのことは政治を厳しく批評していた津田さんだからこそ、分かっていたと思うのだが。

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税金を使う以上、「とにかく自由に使わせろ!」という主張を許すわけにはいかない。そんなふうに主張する人たちは、学問の自由や芸術の自由を振りかざせば、税金を自分たちの思いのまま自由に使えるものだと強く信じている人たちが多い。

そのくせ、政治や行政の税金の使い方にはうるさいことが多い。

■「政治行政は介入するな」と憤る者は芸術を名乗るヘイトを許せるのか?

今回の騒動では、案の定、「芸術や表現の自由に政治行政が介入すべきではない!」と主張する人たちが多かった。

これは、政治行政をとかく批判する人たちによくあるいつものパターンである。

「検閲」という言葉を用いる人まで出てきたが、そのような人は「検閲」というものについてきちんと勉強した方がいい。検閲とは「行政権が、表現物の内容を事前に審査して、一般的・網羅的に発表を禁止すること」であって、今回の件は、問題の展示物をあいちトリエンナーレでは展示しないというだけで、他の場所での展示まで禁じたわけではない。

税金が使われていない他の会場では展示できる余地があるので、これは検閲ではない。しかもいったん発表した後の「事後的な」制約なので、この点でも検閲ではない。

日頃、自由などを強調する人たちは、政治行政が芸術作品などに口を出すことを非常に嫌がる。そしてすぐに「芸術の自由」「表現の自由」を持ち出す。

ところが、芸術作品に政治行政は介入するな! 表現の自由を侵害するな! と叫ぶ人たちは、逆に、ある表現については、ヘイトスピーチだ! 女性蔑視だ! 人種差別だ! 政治行政は介入しろ! 規制しろ! と騒ぐ者が多い。

結局、自分たちの好む表現、自分たちが許容できる表現については、「政治行政は介入するな!」と主張し、自分たちが許容できない表現については、「政治行政は介入しろ!」と言うんだ。

これは、典型的なご都合主義。

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芸術も表現も、場合によってはヘイトにもなるし、女性蔑視にもなるし、人種差別にもなる。個人の人格攻撃にもなる。このような芸術や表現が許されないことは論を待たない。

つまり、芸術や表現は完全なる自由ではなく、やはり制約を受ける。

もし芸術であれば何でも許されるというのであれば、芸術を名乗るヘイトや女性蔑視や人種差別が許されるというのだろうか?

公の美術館や事業で、ヘイトや女性蔑視、人種差別、セクハラ的な芸術作品が展示されたらどうなるのか?

おそらく中止の声が上がるだろう。

普段はこのような表現について血相を変えて、「こんな表現を許すな!」「政治行政はきちんと規制しろ!」と言っている人たちに限って、今回、抽象的な芸術の自由・表現の自由を持ち出して、「政治行政は口出しするな!」と叫ぶ。

結局、抽象的な芸術の自由や表現の自由を振りかざすだけではご都合主義に陥る。芸術であろうと表現であろうと、完全なる自由はない。一定の制約を受ける。そして、この自由と制約のライン、つまりアウトとセーフのラインを「具体的に」考え、それを設定することが、今回のようなチャレンジ的なイベントをやるときの「実行力」の柱だ。この実行力がないまま、このようなイベントをやってしまうと、津田さんのようになってしまう。

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ところが、アウトかセーフかのラインを明確に引いて、絶対的に正しい判定ができる者など、まず存在しない。

だからこそ、プロセス・手続きが重要なんだ。

■成功のカギは「手続き的正義」の考え方だった

絶対的に正しいものが分かりにくい時にこそ、その正しさを追い求めるプロセス・手続きをきっちりと踏んで、できる限り正しいものに近づけるというアプローチをとる。これが「手続き的正義」の考え方だ。表現の「内容」で判定するというよりも、「手続き」をきちんと踏んでいるかどうかで判定するアプローチだ。

結論から言えば、「公金を使っている以上、反日的な表現はダメだ」という理由で、アウトの判定をしてはいけないというのが僕の持論だ。世間では、慰安婦像は反日! という理由で撤去を迫っているようだが、反日かどうかというラインの設定は極めて危険だと思う。

僕のラインは、公金を使って「一方的な」政治的表現をサポートすることは許されないというものだ。政治的かどうかという内容面で一切許されないとするものではない。一方的かどうか、対立側にも表現のチャンスを与えているかどうか、その他の立場の者にもチャンスを与えているかどうかというところでラインを引いている。これは表現のチャンスを平等・公平に与えているかどうかという、まさに「手続き的な視点」でのラインだ。表現の「内容」によってのラインとは異なる。

ゆえに政治的表現であっても、両立場、あらゆる立場にチャンスを平等・公平に与えているなら、公金を使っても問題ないというのが僕の持論だ。

これが「手続き的正義」の考え方だ。

今回の「表現の不自由展・その後」は、「一方的な」政治表現に偏ってしまったことが問題だ。しかし、「手続き的正義」の考え方をしっかり踏まえれば、実は、表現の自由の限界や慰安婦像の問題点などを深く考える非常にいい展示になっていたと思う。ただし、慰安婦像に賛成する者、反対する者、天皇制に賛成する者、反対する者、特攻を揶揄する者、尊崇する者、それら両者から猛批判を浴びることになるだろう。場合によっては命の危険すらある。

しかし、津田さんが今回やろうとしていたことは、そういうことではなかったのか。僕は芸術や表現の分野において、そこまで命を張っての活動はできないが、政治活動においてはそのような覚悟でやってきた。

津田さんがそういう覚悟のないまま、このようなチャレンジをしたというのであれば、そりゃ実行できないのは当然だ。

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(ここまでリード文を除き約3000字、メールマガジン全文は約1万1900字です)

※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.162(8月6日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は《【令和時代の天皇制(5)】竹田恒泰さんと議論して確認できたこと/【表現の不自由展(1)】なぜ津田大介さんは展示会「中止」に追い込まれたか?》のダブル特集です。

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橋下 徹(はしもと・とおる)
元大阪市長・元大阪府知事
1969年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、大阪弁護士会に弁護士登録。98年「橋下綜合法律事務所」を設立。TV番組などに出演して有名に。2008年大阪府知事に就任し、3年9カ月務める。11年12月、大阪市長。
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(元大阪市長・元大阪府知事 橋下 徹)