現在は東武「SL大樹」として走るC11 207(大桑―新高徳間、2017年6月16日筆者撮影)

5月10日、アメリカ合衆国ユタ州プロモントリー(Promontory)で、大陸横断鉄道開通150周年の記念式典が開催された。セレモニーには日本を含む世界中から、大勢の人が参加したが、その“お目当て”の1つは、世界最大級といわれている蒸気機関車、“ビッグボーイ(Bigboy)”の姿を見ることだったのではなかろうか。

このビッグボーイは、第2次世界大戦中の輸送力増強を目的としてユニオンパシフィック鉄道が投入した機関車であり、なにしろ車軸の数は機関車本体だけで12軸、それに水と石炭を積むテンダーの7軸を足すと19軸もある。長さは40メートル以上。重さは約350トン……。どこをとっても日本の機関車の2倍から3倍の巨大さである。

現代でも世界中のファンを沸かせる

半世紀以上も屋外で保存されていたビッグボーイは、この日を目指して修復作業が続けられ、めでたく完成し、記念式典会場に馳せ参じた。そして、世界最大級の機関車による今年最大級のイベントとして世界中の機関車ファンを沸かせたのであった。


5月に復活運転を果たしたアメリカの蒸気機関車「ビッグボーイ」(写真:共同通信)

石炭や重油を燃やして走る蒸気機関車は、より効率の高いディーゼル機関車や電気機関車に押されて、ほぼ世界中で現役を引退してしまった。しかし一方では、動く状態で保存されている姿も、各地で見ることが可能であり、さらには、このビッグボーイの例のように、再登場するものもある。環境問題の観点からは蒸気機関車の維持運転はあまりよいことではないかもしれないが、歴史遺産を継続して維持することができる方策が見いだされることを、大いに期待したいものである。

さて、走る状態にある蒸気機関車は、日本にも数多く存在する。けれど、今回の主題は“現役時代の最強機関車”としたい。なぜならば、いま走っている機関車たちは、ほとんどの場合は、本来の性能をフルに発揮していないからである。

そしてここでの“最強”は、やっぱり独断に基づく形容詞であることを、あらかじめご承知いただけるなら幸いである。

1:戦時の輸送を支えたD52


極限設計のD52(竜華機関区 1968年9月29日筆者撮影)

第2次世界大戦中の1943年、それまで標準的な貨物列車用機関車だったD51を上回る性能を求めて開発されたのが、D52という機関車である。

ボイラーは、直径も長さも規格上の最大限まで大きくし、長さでは約6%長くなって約21メートルに、重さは約8%増えて約140トンとなった。ボイラーの蒸気圧力も高くなっている。しかし実際に落成した機関車は、そのままでは目論見どおりに働くことが難しかった。なにしろ、すべての“モノ”が欠乏していた時代である。同時に“人”も足りなかったからである。

“鋼”である必要のない部分は“木”に置き換えられ、回転部分の軸受けの構造も簡略化するなどの“戦時設計”が最大限に取り入れられていたとはいうものの、設計図のとおりに製造できていれば、性能上の問題はなかったはずである。

ところが実際には、“鋼”の品質は極度に低下していたし、熟練した技能を持つ人々の多くは、軍隊に召集されて戦地に狩り出されていた。加えて、ベテラン機関士たちも例外なく召集されていたため、これまでにない大型の機関車を扱う技量も十分ではなく、所定の性能を発揮するには至らなかった。

戦後は「最強力」機関車として本領発揮

連合国軍機による製造工場への空襲などもあり、500両にも及ぶ計画数のうち、実際に完成したのは285両にすぎなかった。同盟国だったドイツにも同じような簡略設計の蒸気機関車が存在したが、あちらでは、大きく桁が異なる1万両以上が製造された……。アメリカの戦時機関車の代表ともいえるビッグボーイに至っては、“簡略設計”などは、かけらもうかがうことはできない。国力の差としか、いいようがない。

とはいえ、近海にまで出没する潜水艦による攻撃などにより、安全性が著しく低下した海上輸送を大いに補って、物資の輸送に大きな力となったのは間違いない。

戦争が終わってから、160両が標準的な設計に戻され、また木部も鋼板に取り替えられるなどして面目を一新した。そして北海道から九州までの大幹線で重い貨物列車の牽引に、最強力機関車として本領を発揮したのである。

2:華やかさで群を抜くC62


最大級のC62(糸崎機関区 1969年3月25日筆者撮影)

戦争が終わるとともに貨物の輸送量は激減し、それまで押さえつけられていた人々の動きが急増した。そのために必要な旅客列車用機関車は、戦争中に新しく造られることはなく、また既存の機関車も十分な整備を受けることができないままに酷使され、まともに動かすことができる機関車の数は、大幅に足りなかった。

かといって、機関車を新しく製造するほどの資材があるはずもなく、苦肉の策として考案されたのが、大量に余っている貨物列車用の機関車を、旅客列車用に改造することだった。

具体的には、標準機関車D51からC61が、超大型機関車D52からはC62が誕生した。動力の発生源であるボイラーと各種部品を元の機関車から再利用し、旅客列車にふさわしい高速を出すことができる、大きな動輪を持った走行部分を新しく作って組み合わせるという手法であった。

新造よりも既存車両を活用

ちなみに、このようなアイデアが出された背景には、実際に資材が不足していたこととともに、“新しく造る”よりも“既存の材料を活用する”という計画のほうが、占領各国からの認可を得やすいから、という事情もあったと伝えられている。

なお専門的になるが、国鉄の蒸気機関車では、動輪を組み込みボイラーを載せている台枠を新しく作ったらそれは“新造”であり、その他の部分は、どれほど新品に取り替えても“改造”であると定められていた。にもかかわらずC62とC61の計画では一貫して“改造”であるとされている。

なお、活用した部品の多くは、ボイラーを含めて材料や工作の不良という可能性をなくすという目的から、後に新造品に交換されている。

こうして生まれた49両のC62は、東海道・山陽本線をはじめ、東北本線南部や常磐線などの重要線区で、特別急行(特急)や急行を牽いて華やかに活躍することとなったのである。

3:数奇な運命の峠の力持ちE10


完全新造としては国鉄最後の新形式機関車E10(青梅鉄道公園 2018年1月筆者撮影)

1948年、E10という蒸気機関車が5両製造された。またもや第2次世界大戦直後の話になるわけだが、今は“山形新幹線”となっている奥羽本線の、福島と米沢の間の山越え区間で使うために設計されたのが、この機関車である。

さきのC62やC61とは生い立ちが異なり、戦争中に作られて戦後に余った機関車の部品は使わず、完全に白紙状態から設計、製造された。その意味では、国鉄最後の完全新造新形式機関車ということになる。

なぜこの機関車が占領各国からの認可を得られたのか。それは、占領各国による財政金融引き締め政策(いわゆるドッジライン)に起因する。

この区間に電気機関車を導入して輸送力を一挙に増大させる構想は古くから存在しており、戦争が終わった直後にようやく電化の起工式が実施されるに至ったのである。ところが、ドッジラインによって工事は中止の憂き目を見ることになった。自らの政策の結果としてこの区間の輸送力が激減してしまうことを避けるためには、機関車の新製を認めざるをえなかったのである。

その電化は1949年に完成した。E10のこの区間での活躍は、ほんの1年で終わりを告げた。想定されていたこととはいえ、あまりにもあっけない幕切れであった。

わずか14年で活躍を終える

せっかくの機関車は、似たような連続勾配区間である南九州の肥薩線に転用されることになった。しかし“大畑越え”と称されるこの区間にはすでに標準形式であるD51が投入されていて、E10はあまりにも特殊であるとして受け入れられず、続いて北陸へと移動せざるをえなかった。

その北陸では、源平の古戦場でもある金沢と富山の間、倶利伽羅峠越えの補助機関車として貨物列車や長距離急行列車などの先頭に立つことになった。しかしそれも、1955年に勾配の緩い新しいトンネルが完成したことで幕が引かれることになる。わずか5年間のことである。この時点では、急勾配が連続する電化計画のない重要線区はすでに残っていなかった。

最後は、北陸本線の米原付近で直流電化区間と交流電化区間の間を往復するという、本来の目的とはまったくかけ離れた用途をあてがわれ、1962年に、わずか14年の活躍を終えることになった。時の流れにもてあそばれた、悲劇のヒロインといえるかもしれない。

4:鉄道近代化の看板娘C55 


C57と人気を二分するC55(若松機関区 1969年3月25日筆者撮影)

20世紀初頭……大正時代、日本の鉄道は大発展を遂げた。経営的な面はもちろんのこと、車両や施設などの製造や保守技術などの面でも同様だった。蒸気機関車の設計でも、諸外国から輸入した機関車によって多くのことを学び、わが国独自のノウハウが確立され、昭和に入ると、熟成はさらに進んだ。

そんな時期、1935年に登場したのがC55という機関車である。大正期に誕生したC51という急行列車用機関車の性能を受け継いだうえで、使い勝手や技術面で一層の昇華を成し遂げた機関車といえる。

C51の後継機関車には、C53という機関車も存在した。安全性確保のために重くなった客車を、それまで以上の長い編成で高速で走らせるために性能を向上させたものだが、特殊な構造が災いして活躍の時期は短く、第2次世界大戦後のC62で完成形を見ることになる。

北海道から九州まで配置

話は戻ってC55。当時の国鉄(鉄道省)は、鉄道近代化をアピールするために、出来上がったC55を北海道から九州まで、分散して配置するという施策を採った。さらに“流線形ブーム”に乗って21両を完全な流線形として新製し、これもまた各地にちりばめたのだった。

最終的には62両が製造されて、その後は性能が少し向上して丸味を帯びたスタイルのC57へと発展する。そういう意味では過渡的存在ともいえるけれど、多角的な面で飛躍的な近代化を実現したという点で、画期的な存在なのである。なにより“看板娘”よろしく、多くの人々に注目された功績は大きい。

趣味的な評価で好みは人それぞれ。C57とC55とでは甲乙つけがたく、つねに趣味人の話題の的だ。誕生から80年を経た今もなお、看板娘への評定は続いている。

5:千両役者 C11


SL大樹として走るC11(大桑―大谷向間、2017年6月16日筆者撮影)

電車やディーゼルカーが本格的に実用化される前は、大都市の近郊といえども蒸気機関車の牽く列車が走り回っていた。このような列車には、水や石炭を機関車本体に積み込んで折り返すたびに機関車の向きを変えずに済む“タンク式”機関車が使われることが多い。

昭和に入った頃には、それまで古い機関車を使いまわすことが多かったこの種の列車にも、新式の機関車を導入する機運が高まった。最初はC10という機関車が1930年に製造され、その実績をもとに1937年から量産されたのがC11である。

走れる状態の車両は最多

しかしC11が都市近郊列車に使われた時間は短い。省線電車(戦後は国電と呼ばれる)の技術開発が進んだからである。それにもかかわらず、この機関車はその後も製造され続けた。それはなぜか。

地方線区に残っていた明治期の雑多な機関車を引退させるためにも有用な機関車であることが、第一線への投入後間もなく明らかになったからである。客車だけでなく、貨物列車の牽引にも使われるようになった。石炭や水の積める量を増やすなど、少し設計を変更したうえで、実に1947年まで、ほとんど途切れることなく造り続けられた。

その間には私鉄や、炭鉱などの産業鉄道向けにも供給されて、総数は実に400両を超えた。鉄道省/国鉄での最大両数を誇るD51、長距離の地方線区向けC58に続く第3位である。

現在、5両が本線で走ることができる状態にあり、さらに1両がラインナップに加わろうとしている。これは、いわゆる動態保存蒸気機関車の中で最多両数である。これも、この機関車が千両役者であることの、証しの1つであるに違いない。