【石原克哉が目指す、共に成長したクラブとJリーグへの恩返し】

 ゴールデンウイークの最終日となる5月6日、17年間ヴァンフォーレ甲府ひと筋でプレーし、2017年限りで選手生活にピリオドを打った石原克哉(現クラブアンバサダー)の引退試合が中銀スタジアムで行なわれた。

 かつて甲府でもプレーした小倉隆史、羽生直剛のほか、親交のある鈴木啓太などが駆けつけ、引退に花を添えた。「ヴァンフォーレ甲府レジェンズ」と「石原克哉とゆかいな仲間達」による試合は、甲府レジェンズが8−5で勝利。石原は、前半はゆかいな仲間達、後半は甲府レジェンズの一員としてプレーし、それぞれのチームで合計3得点。「現役では達成できなかった」というハットトリックの活躍で、慣れ親しんだピッチに別れを告げた。

 試合後のインタビューで、「ただ長く在籍していただけの選手」と、謙遜気味に自身のキャリアを振り返った石原。彼の選手生活はJリーグ全体とクラブの成長と共にあった。


かつてのチームメイトなどが集い、引退試合を行なった石原(前列中央)

――石原さんが甲府に入団したのは2001年。チームは前年にJ2記録の19連敗(25戦未勝利)で最下位に沈み、債務超過による経営危機の真っ只中でした。チームの存続も危ぶまれる状況で苦労されたことはありますか?

 練習環境が整っていたわけではありませんでしたが、それ自体はあまりキツいとは感じませんでした。一番つらかったのは、アウェーゲームのバス移動ですかね。シーズン中に数回、試合当日に移動し、そのまま試合に臨んだことがありました。今では考えられないことですが、九州などの遠方で行なわれるアウェー戦以外、ほとんどバスで移動していました。

 そのような状況で戦った、プロ1年目の2001年シーズンは最下位。(12チーム中12位)練習生として加入したので年俸も低く、なかなか試合に勝てなかったこともあり、勝利給もほとんど入ってきませんでした。当時の年収は、およそ60万円〜70万円だったと思います。

――環境の改善や変化が見られたのは、いつ頃のことでしたか?

 海野一幸社長(現ヴァンフォーレ甲府会長 兼 一般社団法人ヴァンフォーレスポーツクラブ代表理事)や、輿水順雄常務(現取締役エグゼクティブアドバイザー)が来て、クラブの再建を図り始め、徐々に変化が見られました。元日本代表の小倉隆史さん(現FC.ISE-SHIMA理事長)が、ヴァンフォーレ甲府に加入した2003年辺りから、実際に改善を感じられるようになりました。

 当時は、まだチームの財政面の不安も残る状況だったと思いますが、遠征で新幹線や飛行機を使うようになったのも同じ時期でしたね。給与面では、試合にコンスタントに出られるようになった2年目から、徐々に年俸が上がっていきました。とくにJ1に昇格した2006年シーズン以降は、プレー以外の部分でも評価していただき、とても感謝しています。

――練習環境に変化があったのも同じ時期でしたか?

 目に見える変化があったのは2008年、押原公園に天然芝のグラウンドが完成した時ですね。きれいに手入れされた場所で練習できる喜びを感じたことを覚えています。その後も、山梨県や市町村に協力いただき、山梨大学医学部グラウンド(2010年)や韮崎中央公園芝生広場のクラブハウス(2013年)が整備され、現在の環境になりました。

――クラブのさまざまな環境が整えられていくなかで、石原さんが「J1昇格」を意識したのはいつ頃でしょうか。

 2005年シーズンですね。当時の大木武監督(現FC岐阜監督)に「昇格するぞ!」と言われました。それまでは「昇格」を語れるようなチーム状況ではありませんでしたが、大木監督の言葉や、先輩方が作り出してくれる雰囲気に引っ張られ、気がついたら結果を残せていた感じです。

――その2005シーズンは、終盤のデッドヒートや、柏レイソルとのJ1・J2入れ替え戦での勝利を経て、見事に昇格を果たしました。

 入れ替え戦の第2戦は、現役生活の中で最も特別な試合です。この時の柏レイソルは、波戸康広選手、明神智和選手といった日本代表経験者や、元ブラジル代表のフランサ選手といったスター選手が多く在籍していました。チーム存続の危機からたった数年で、タレント揃いのチームを下してのJ1昇格が決まった時は、ただただ信じられない気持ちでした。試合が終わったあと、苦しい思いをしてきた先輩たちのところに挨拶に行って、喜びを分かち合ったことを覚えています。

――その柏レイソルとの第2戦では、甲府のFWバレー選手が、Jリーグ公式戦新記録となる1試合6得点と活躍しました。

 ヴァンフォーレが好調なシーズンはいいFWが在籍していることが多かったですが、この試合は「バレーさまさま」。本当に感謝しかないですね(笑)。


引退試合後、ファンとハイタッチを交わす石原

――初めてJ1で迎えた2006年シーズン。石原さんは、第2節のジェフユナイテッド市原・千葉戦で、甲府のJ1初ゴール(堀井岳也)をアシストしていますね。

 そのシーズンはワクワク感しかなかったです。開幕前には「ダントツの降格候補」と予想されていたこともあり、「当たって砕けろ」の気持ちでした。僕もどこかで得点を取りたいと思っていましたが、シュートがそこまで得意ではなかったので、自分がチーム初ゴールを奪うよりは、「初ゴールをアシストしたい」という意識が強かったように思います。

――2006年はJ1残留を果たしましたが、2年目の2007年にはJ2に降格。その後も、引退までに昇格と降格を2度ずつ経験しましたが、「J1残留」を意識するシーズンも多かったのではないでしょうか。

 プロに加入したばかりの頃、「勝ち点を取るためにはどうすればいいか」を必死に考えた経験が、厳しいJ1残留争いを戦ううえで役に立ったように思います。初めて降格した時は、本当に悔しい気持ちでいっぱいでしたけど、「苦い経験を次に生かすためにどうすればいいか」を自分なりに考え、次のシーズンにつなげられるよう努力しました。

―― 一緒にプレーされたチームメイトのなかには、国内はもちろん海外のクラブに移籍した選手もいます。一方で、ヴァンフォーレひと筋の選手生活を送った石原さんは、自身のキャリアについてどのように考えていましたか?

 山梨県出身ですし、拾ってもらった地元クラブへの恩返しを優先したいと思っていました。移籍するつもりもなかったので、代理人もつけていなかったんですよ。さまざまなキャリア観があると思いますが、現在クラブのアンバサダーとして活動させてもらっているのも、長年ヴァンフォーレ甲府の選手として過ごしてきたからこそだと思っています。

――2017年シーズン限りで引退を決断しましたが、何かきっかけがあったんでしょうか。

 日常生活や日々のトレーニングをこなすなかで、選手としてのタイムリミットに気がつきました。今でも難しい判断だったと感じています。選手である以上はレギュラーになりたいですし、試合に出たら「もっとできるはずだ」と思いますから。

――甲府は、地域に根ざした活動を積極的に行なっている印象を受けますが、アンバサダーという立場になって、広報活動や運営について感じたことはありますか?

 現役時代も子供たちと一緒にボールを蹴ったり、クラブの広報活動に携わったりしてきたつもりだったんですが、”つもり”だったということに気づいたのは引退後のことです。選手だった時は、クラブ運営がこんなに大変なものだとはまったく想像できませんでした。自ら試合会場を設営してくれる海野一幸会長や、ボランティアのみなさんの姿を見て、感謝の思いがより強くなりましたね。今は、「みんなのために絶対勝ってくれ」って思いますもん(笑)。

――アンバサダーに加え、チームの指導者としてのキャリアもスタートされましたね。

 まだまだ駆け出しですが、ヴァンフォーレ甲府アカデミーでのコーチや、スカウトとして活動しています。引退後は「スカウトになりたい」と思っていたので、希望を聞いてくださったクラブには感謝の気持ちしかありません。

 コーチとしては小学校低学年の子供たちを指導していますが、みんな真面目ですし、平均してレベルが高い。誰にでもプロで活躍できる可能性があると思っています。将来的にはアカデミー出身のプロ選手をもっと増やしていきたいですね。地元出身の選手が増えれば、サポーターも増えるでしょうし、地域に愛されるクラブ作りにもつながりますから。

――2019年のJ2を見ると、水戸ホーリーホックに対して新たにJ1ライセンスが交付され、町田ゼルビアにも取得に向けた動きが見られます。石原さんが甲府に加入した2001年に比べて、現在のJリーグ、とくにJ2はどのように変わったと感じますか?

 個々のチームの動きについての言及は難しい部分もありますが、Jリーグ全体を見ると、僕が加入した2001年頃と比べて、プレー面、クラブ経営とも格段に進歩したように感じます。近年のJ2は毎年混戦で、高いレベルでの競争が繰り広げられています。指揮官の質も高まっていて、今シーズンから甲府を指揮している伊藤彰監督も、選手同士の競争意識を高めて、モチベーションを上げるのが本当にうまい。チームの粘り強い戦いにもつながっています。

 クラブ運営の面では、J2だけでなくJ3を含めて安定した経営基盤を持ち、J1を目指すクラブが増えました。最近は、以前のようなスタジアム整備や財政面が原因でプロ化を断念するといった事例も少なくなったように見受けられます。

 クラブごとに事情は異なると思いますが、Jリーグの理念でもある地域密着に力を入れ、イベントなどによってクラブと地域の交流機会が格段に増えました。これが結果として、スポンサー企業の誘致や、安定したクラブ経営につながっているように感じます。

――さらに発展を遂げるためにやるべきことは?

 現在ヴァンフォーレ甲府が戦っているJ2は、J1のような大物選手が少ないですが、満員のスタジアムで試合ができるようにしなければならないと感じています。選手のモチベーションにも直接関わりますからね。各チームの具体的な目標は「J1昇格」や「勝利」になるでしょうが、ファンの心に響く気持ちのこもったプレー、質の高いサッカーを続けていくことが、さらなるJリーグの発展につながると信じています。

(写真提供:ヴァンフォーレ甲府)

■石原克哉(いしはら・かつや)
1978年生まれ。山梨県出身。韮崎高校から順天堂大学に進学し、クラブのセレクションを経て2001年にヴァンフォーレ甲府に加入。甲府に在籍した17年間でJリーグ通算467試合に出場、30得点を記録。2017年シーズンをもって引退したのち、クラブのアンバサダーに就任したほか、指導者やスカウトの活動も行なっている。