高校の卒業アルバムより

《今ぼくは概ねあなたの予想通りの未来にいると思います。バンドという形ではないものの、あなたがこうでありたいと願ったことはなかなか叶えられているんじゃないかな》(『Cut』2017年9月号)

 26歳の米津玄師が寄稿した、「子どもの頃の自分へ宛てた手紙」の一節だ。当時、映画やテレビアニメに楽曲を提供するなど、すでに全国区の知名度を獲得していた彼だが、本人も今現在の活躍ぶりを予測し得ただろうか。

 米津玄師、28歳。2018年末の『NHK紅白歌合戦』電撃的出演を経て、いまやその人気はとどまるところを知らない。

「『紅白』では、代表曲『Lemon』を熱唱した米津。大晦日前は下痢と発熱で体調を崩し、病院にかかっていたそうですが、本番は見事に歌いきった。名実ともに、国民的歌手となった瞬間でした」(音楽ライター)

 音楽シーンを変革し続ける若きカリスマは、いかにしてその才能を育んだのか。

 徳島県徳島市。木材業の工場が立ち並ぶ港町に、米津は生まれた。

 幼稚園、小・中学校は自宅の近く。絵を描くのが好きな、物静かな少年だった。

「小学校高学年で担任だった先生いわく、『顔も覚えてない』。引きこもり気味だったと聞いています。同じ小学校の子が卒業アルバムを見て、初めて同級生と気づく。それぐらいおとなしい子だったそうです」(近所の飲食店店主)

 中学の同級生が語った。

「昔から雰囲気は変わってなく、前髪で目が隠れるような髪型でしたね」

 多感な米津少年の「窓」を開いたもの−−それが音楽だった。中2で幼馴染みとバンドを組み、曲を作り始める。そのころから「プロになりたい」という思いが芽生えていたようだ。

 やがて徳島商業高校に進学。当時よく、ギターをかついで自転車通学していた。

「昼休みはイヤホンつけて、いつも音楽を聴いてました。聴いてる最中に話しかけられるのを嫌がってて、声をかけたらものすごい怒られた。

 一度、昼休みに教室が騒がしかったとき、いきなり米津がバーン! と机を叩いて、教室を出ていったことがありました。きっとうるさかったんでしょうね(笑)」(高校の同級生)

 高校2年のとき、修学旅行は北海道のスキーを選択。「運動神経はイマイチだった」という証言もある。高校の文化祭では、「Toy Circus Show」というバンドを率いた。ちなみに高校時は、彼女持ちだった。

 そして米津は、別の同級生に、こんな胸中を明かしている。

「『俺は将来、絶対売れるんで、写真を残したくない』って言ってました。中学のころから本気で音楽で食べていくつもりだったのはヨネだけ。

 大阪の専門学校に進学するとき、『大阪に着いてバスを降りる瞬間、声をワントーンあげる』って宣言していました。今の彼をテレビや雑誌で見ると、自分を変えることに成功したんだなと思います」

 その言葉を裏付けるように、写真を撮られるのが苦手な米津は、集合写真にもなぜか写っていない。

 一方、高校時代の米津が、たびたび出演していたライブハウスの店長も、彼の音楽センスに目をつけていた。

「米津くんはギターボーカル。同級生と3人で作ったバンドで、何度か出演していた。全曲オリジナルで、高校生のレベルじゃない完成度でした。高校のころから、ネットに曲を上げてたでしょ。

 行動からして、プロミュージシャン志向。社交的な性格じゃないから、友達を呼ぶこともほとんどなくて、観客ゼロくらいの日もあったけど、めげない芯の強さがあった。彼を知る同世代の地元バンドマンは、口を揃えて『自信家だった』と言いますね」

 鬱屈したトンネルを抜け、摑んだ「音楽」という光。いま、時代の寵児としてまばゆく輝く。

 次のページでは、米津の以前のクリエイター名である「ハチ」にちなみ、彼を紐解く8つの数字と、それにまつわるエピソードを紹介する。