『フローリストストウ』専務 野口昌代さん 撮影/坂本利幸

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 新宿歌舞伎町のホストクラブ『DOLCE1』。一面に鏡が張られ、シャンデリアの光を四方に反射させている。そんなきらびやかな店内に、次々と洗練されたホストたちが集まってきた。大勢のホストの前に立ったのは、スレンダーな身体にピッタリ沿ったワンピースを着こなし、明るい色の髪をきれいにまとめた女性。慣れた様子で明るく挨拶をした野口昌代さん(45)は店内の花の装飾を請け負っている花屋『フローリストストウ』の専務だ。

【写真】野口さんがヒットさせた“高崎だるま”のスタンド花ほか

店舗を持たないお花屋さん

「最初はオーナーと知り合いで、何度か仲間とお付き合いで行くうちに気になったところを提案させてもらいました。もっと席に座ったときに目を引くお花にしたほうがいいですよ、高級店らしい豪華なお花のほうが、女性のお客様の気持ちも上がるからと」

 ホストクラブ代表の霧輝優さんがその変化を明かす。

「僕ら目線でいくと、とりあえず花でも置いておけばいいかという意識だったんです。でもアレンジを変えてみたら、お客さんから褒められるようになりました。プロはやっぱりすごいですね」

 ホストは接客のプロではあるが、装飾のプロではない。昌代さんはホストクラブだけではなく、街中のレトロな喫茶店やバー、クラブなどの店内アレンジも引き受けている。

◇  ◇  ◇

 お花屋さんというと、どんなイメージがあるだろうか。駅前に小さな店舗を構え、店内にはあふれんばかりの生花、立ち寄る客にブーケを作って渡す─私たちが目にする「花屋」はそんなイメージだろう。

 しかし創業明治25年の『フローリストストウ』は現在、店舗を持たない。「来店する客を待つだけの商売はこの先、厳しい」と考え法人向けには営業をし、個人にはネットなどの通信販売で花を売るスタイルに転向した。

 従来、花は贅沢品だ。生活に必ず必要なものではない。野口さんは「それなら花を買う理由を探せばいい」と、花そのものを売るのではなく「花の用途を売る」ことを考えた。

 そうして次々とアイデアを形にしていき、老舗花屋に大改革をもたらす。実は彼女は仕事を始めた当初、雑務を担当するアルバイトだった。それから2年で正社員になり、わずか5年で専務にスピード昇格。

 この驚くべき出世の背景には「嫌いな人をつくらない」という、人に対する愛情と「なぜだろう?」と常に疑問を持つ彼女のこだわりがあった。

 1991年、野口さんは高校を卒業後、都内の一流ホテルに職を得た。その後、バブル崩壊で他人の借金を負った両親を助けるためにホステスをはじめる。それから数年後に結婚し、専業主婦になった。

フライパンを持って家出

 結婚して5年。8歳年上の事業家の夫は寛容で優しかった。夫のために尽くす平穏な日々。夫は「働かなくていいから、習い事でも好きなことをやっていいよ。大学も行きたくても行けなかったんだから行ったら?」とすすめた。専業主婦に憧れる女性なら、願ってもない提案だろう。

 当時の野口さんを4歳年下の妹、亜紀子さんはこう語る。

「結婚していたころの姉は、旦那さんの言うとおりに動いていたイメージですね。旦那さんが食べたいものを作って、環境を整えて。でも、どこか窮屈そうで、ホントはいやなんだろうなとうっすら思っていました」

 野口さんは家事を完璧にこなしながらも、こんな葛藤を繰り返していた。

「料理していても、ずっと考えていました。夫ひとりのためにご飯を作っているこの時間があればどれだけ多くの人を幸せにできるだろうって」

 25歳で結婚したものの、社会の流れを知り、自分の可能性を試してみたくてしかたがなかったのだ。

「結婚生活をしながら、フルで働くエネルギーは全然あったんです。一線でガンガン攻めてみたいって気概も満々」 

 夫は苦労人の妻に、厚意で「今まで大変だったんだから、ゆっくりしなさいよ。どうして働かなくちゃいけないの?」と言ってくれる。しかし、野口さんの気持ちは変わらなかった。

「そう言ってくれるのはありがたいのだけれど、私には人生に蓋をされたように感じられました。まるで籠の中にいるような気分なんです。どう言ってもわかってもらえなくて、これでは埒が明かないからと、家出をすることにしました。必要最低限のものを持って出たと思うのだけど、なぜか使い慣れたフライパンを持って出たことしか覚えていないの。主婦の必需品だからかな(笑)」

 こうして“主婦”を捨てた彼女の挑戦が始まった。

 2003年、家出した後に離婚。以前、夫の反対を受けながらも、少しお手伝いでお世話になった花屋『フローリストストウ』にアルバイトで入った。

 野口さんがまず手がけたのは“嫌な人撲滅運動”だ。

 職場には、フラワーアレンジメントや書家など、職人気質の人がたくさんいた。中にはとっつきにくい人もいる。そういう相手には「お昼ひとりなんですけど、ご一緒させてもらってもいいですか?」と言って攻めていく。

「こういうの嫌いじゃないのよ。気難しい人ならたいていお昼もひとりだから(笑)。会話も質問攻め。“どうして花屋さんになったんですか?”とか、話す内容は全部、前の日に考えておいてね」

 野口さんの普段の仕事は段ボールの整理にゴミ出し、お茶入れといった雑用だった。でも、それだけではなく普段からスタッフたちのパシリもしていた。細々した買い物とか、用足しを進んでやる。瞬く間に人気者になった。出勤すると、注文票を見て忙しい部署の見当をつける。そうして絶妙なタイミングで“お節介”しに行くのだ。

「ただただ“いやあ、助かるよ”って言ってもらいたくて。言われないなら、まだ何か足りないんだ、あとプラスアルファで何をすれば“助かったよ”って言ってもらえるんだろうって、寝る間を惜しんで考えていたんです」

 誰でも、自分に興味を持ってくれる人には心を許すものだ。

 そのうえ、自分が忙しいときにはどんな雑用でも積極的に手助けしてくれる。こうして多くの社員の心をつかみ、信頼を得てアルバイトから正社員になった。入社してから3年目のことだ。

「私、嫌いな人つくらない主義なので、どんな人でも絶対仲よくなれると自信があったの。あきらめなければ願いは叶うんだって思いました、うれしかったなぁ……」

 嫌いな人をつくらない主義。それは彼女の意外な幼少期の体験によって培われていた。

意地悪な人がかわいそうに見えた

 小学6年生ですでに168cmと高身長で、いつも周囲から頭ひとつ飛びでていた。その身長のせいなのか中学を卒業するまでいじめられていたという。

「友達がひとりもいなかったの。いじめは小さなことなんだけどね、私だけみんなと違う連絡が来て“赤い糸でぞうきんを縫ってきて”とか言われる。で、持っていくと、みんな白い布に白い糸で縫ってあったり」

 背が高く目立つ野口さんは、格好のいじめ対象だった。しかも恥をかかされても「ホントだー、私だけ違うじゃん!」と笑い飛ばし、いじめを逆手に取って「目立って結果オッケー」にしてしまう。

 自分以外にいじめられている子がいると「いじめるなら私にしなさいよ」と言って、身代わりになって自ら田んぼへダイブした。畑で唐辛子を目いっぱい口に含む遊びが流行り、やはり、ほかの子がターゲットになると、自らワーッと口に唐辛子を放り込んだ。そして「これで気がすんだ?」といじめっ子たちを見上げる。

 なぜこの人たちは自分をいじめるのだろう、どうして自分はいじめられるのだろう。

 その理由はわからなかった。だが、いじめる子たちの気持ちは想像ができた。

「どんなにいじめられてても、その人のことは嫌いじゃなかったの。いつも親の愛情を肌で感じていたせいか優しい気持ちでいられたので意地悪な人がかわいそうに見えて。なかなか理解できないと思うけど……。いじめる人って寂しかったり、心のどこかに穴があいてると、子どものころから感じていたんです」

 かといって傷つかないわけではない。毎日毎日、学校へ行けばいじめられる。明日を楽しみに生きていた。明日こそいじめられないだろうと言い聞かせながら。

「私ね、リカちゃん人形になるのが夢だったんです。妹たちは可愛いねって言われるのに、私は親にすら言われたことがない。いじめっ子からはデブだブスだって言われてたから、可愛くなりたかった。自分を守るために明日、リカちゃんになれるかもしれないから楽しく生きようって思っていたんです」

 いじめ経験が、社会に出てホステスをはじめると、大いに役に立った。

 実家はバブルの崩壊の煽りを受け数千万円もの大きな借金を抱えていた。借金返済を助けるため野口さんは手にした給料をすべて実家に入れていたという。

「学校でいじめられ続けてたせいか、社会に出たとき、こんな私なんかに仕事を教えてくれたり、優しくしてくれることに感動しちゃって。我慢することにも慣れていたから、お給料を実家に入れることは苦にならなかったの」

門前払いでも折れない強い心

 ホステスの仕事は意外にも天職だった。もともと、リカちゃんのように可愛く、おしゃれをして生活したいと思っていた。ホステスは着飾ることが仕事の一部だ。

「いじめられ慣れてるでしょ? それがいいキャラに変換できて、なんでもできちゃうの。アイスペールにシャンパンを入れてガーッと飲んだり、いじられ役をやったり。だからパフォーマーとして活躍できたわけ。もう、あのころのいじめっ子ありがとう! って思ったわ(笑)」

 ホステス時代にも靴を隠されるなどのいじめにあった。しかし、いじめをするホステスにも自ら近づいていった。

「誰かが聞いてあげなかったら、この人は爆発しちゃうだろうなって思ってたから、よく話を聞いていたの。それを深掘りして聞き直したりしていくと、すごく仲よくしてくれるの。それで“実はさ……”って始まるのよ、自分のつらい話が。100人中100人そうだった」

 後に実践する“嫌な人撲滅運動”はホステス時代から始まっていたのだ。

 野口さんは日常の小さなことでも「なぜ?」と考えるクセがある。「なぜ自分はあの店に行かなくなったのだろう」「なぜ、あの人はこんなことをするのだろう」と理由を探すのだ。野口さんの斬新な発想の多くは、こうした素朴な疑問に基づいている。

 路面店をたたみネット販売を始めたのも「なぜ、こんなもったいない売り方をするんだろう」という疑問からだ。

「お客さんが10人来たら、要望を聞いて10個ちがう花束を作らなくちゃいけないでしょ?」と野口さんは言う。

 例えばチューリップが1本欲しいというお客様のために、30本や50本と大量に仕入れなければいけない。その多くが廃棄になる可能性がある。

「でも配達専門の花屋にすれば、数パターンの花束を作っておいて完成品を売れば、新鮮なお花を無駄なく同じ花束で提供できる。こんな効率のいい話はないでしょ?」

 しかし客を「待つ」スタイルをやめるからには、法人向けにも積極的に花を売らなければならない。野口さんは自ら「花屋の営業マン」になろうと、とにかく飛び込み営業をした。

 道を歩いていてレストランやエステサロンなどがあるとすかさず「この受付にお花置きませんか?」と入っていく。もちろん、たいていは門前払いだった。

 しかし、いじめと接客で鍛えられた心は簡単には折れない。何千軒と飛び込み営業に行くうちに「花って高いね」「どういうときにお花を使えばいいの?」など同じような質問が多いことに気づく。花を必要とするシチュエーションがわからないのだ。

「私たち花屋は、常に新しい商品、新しいデザインを創造しないといけないと思い込んでるんです。でも一般のお客様はもっと根本的なところにいて、お花の使い方がわからない。だから、私たちが戦う場所はそこじゃないはずなんです」

 業界にいると、よくも悪くもその世界の常識が頭に染みついてくるものだ。見慣れたものには価値を感じなくなっていく。しかし花を売る相手は“素人”なのだ。長く主婦をしていた野口さんは、自分が花に詳しくなる必要はない、お客様に近い感覚を持っているのが私だから、“プロの素人”になろうと決めたという。

他店を研究しアイデアをひねる

 お母様の誕生日、彼女と付き合った1周年記念、金婚式、お仏壇……野口さんは花を贈る“用途”をどんどん開拓していった。その営業トークはお手のものだ。

「ご命日は大切。でも故人を偲ぶならお誕生日も喜んでくれるかも! とか、どんどんお花を買う理由を作っていったの。お墓が遠くてお参りに行けない人には、買ってくれたお花を代わりに挿しておきますよというサービスを始めたりね」

 当時テレビショッピングの制作をしていた男性は、番組に野口さんが出演した際のことを振り返る。

「たいていの人は、自分の作った商品を“こんなにいいものを作ったんです”とアピールします。でも野口さんは、お客さんのためを思って、どうしたら楽しんでもらえるか、お客さんが何に悩んでいるかを考えるんです。

 今まで“花は買ってきて枯れるまでの数日を楽しむ”ものだった。しかし生花を特殊加工して作るプリザーブドフラワーは、年単位で美しく保てる。それを仏花として売りたいと言うんです」

 花は飾りたいし、先祖も供養したいが世話が面倒だという人は多いだろう。野口さんは番組で「枯れない仏花」をアピールした。仏壇に1年中生花を飾るのは管理が大変だが、プリザーブドフラワーならメンテナンスがいらず、かつご先祖への供養の気持ちも表せる。お彼岸のときには今までどおり生花を飾れば、これまでよりもずっと供養になるというのだ。これが野口さんの言う「花の用途売り」だ。

 従来、仏花はお彼岸にしか売れなかったし、プリザーブドフラワーはブーケなどの飾りにしか使われなかった。それを「供養」と「手間がいらない」を掛け合わせ、新たな花の用途を創り出したのだ。 

「他社の花屋500店舗くらいがすでにやってる売り出し方を全部書き出して、誰もやってないことを探したわけ。例えば、“ペットの誕生日や命日に花を贈ろう”とかね」

 また、「セット売り」も野口さんのアイデア商品だ。

 群馬県高崎市の特産品である高崎だるまと花をセットにして、開店祝いに贈るスタンド花にすると「縁起がいい!」と評判を呼び、大ヒットした。

 入社して5年目には、取締役に昇進。野口さんは、上司としても頼りにされている。

 10年以上、営業を担当していた田所節子さんは、器の大きさに太鼓判を押す。

「仕事の細かなことには口出ししないで任せてくれます。でも、お客様からクレームが来たときなど、何かあったときは頼れる人です。スタッフの意見や不満があればしっかり話を聞いてくれるので、なんでも言えるんです。彼女について困ること? ……うーん、多忙すぎて、スタッフが、野口さんがつかまらないんですが、どこにいるんですか?って騒ぐことがあるくらいかな」

 子どものころから、3つ年下と4つ年下の妹たちや、その友達の面倒をみていた。野口家の自宅近所には団地があり、子どもたちが大勢住んでいたからだ。姉妹もその仲間に交じって遊んでいたが、野口さんは子どもたちの見守り役だったという。公園に遊びに行っては、10数人の子どもを束ねるような親分肌だった。末の妹の亜紀子さんにとっては母親代わりでもあった。

「テレビを見ていると、早くお風呂に入りなさいとか、靴はそろえなさいと指導されました。母に言われた記憶はなく、姉にしつけられました」

 すぐ下の妹、恵さんは、今も姉を頼りにしている。

「姉はなにを聞いても“えーっ!?”って言わないんです。めんどくさそうなことでも、なんとかしてやれるようにしようと、解決策を考えてくる。私の息子が劇団の舞台に立つことになったとき、家から通うのが大変だと何げなく言っただけで“じゃあ、うちに泊まらせればいいじゃない”って言って送り迎えまでやってくれたり。なにを言っても断らないんです」

 花の営業をしながら、野口さんは周囲からの評判を落とすことがない。目先の利益にとらわれるのではなく、信頼関係を築くことを徹底しているからだ。仕事や見た目で人を差別しない姿勢で、多くの人脈を作り上げてきた。

“人との関係はカネではない”

 野口さんは6年前、所属していた守成クラブという異業種交流会で新会場(新しい会)を立ち上げた。こうした会に参加するのは経営者ばかりで、主な目的は売り上げを上げることだ。より多くの人と名刺を交換し、自社製品やサービスをアピールするのだ。クラブの会員で、野口さんの顧客でもある武田恭平さん(29)はこう語る。

「野口さんとは、ビジネスの交流会なのにずっと仕事の話をせず、人間関係の相談などプライベートで付き合っていたんです。でもあるとき“あなたの会社で清掃業務をやってるよね、うちのビルを建て替えるから、メンテナンス業者を探しているの。ビルを見てもらえない?”と言われました。それ以来、仕事をいただいています。僕も知り合いの経営者に花を贈ったり、お彼岸などの季節の花は野口さんから買っていますよ」

 自分の利益よりも先に相手を思いやれることが、結果的にビジネスにつながるのだ。 

 野口さんは、会でこんな本音の話をするようにした。

「昨日今日、今日明日の仕事しか頭にない人は参加しても仕事にならない。10年後の仲間づくりのために、その人脈を今ある余力で、なかったら無理にでもつくっておきましょうよ。絶対あとでわかるからと、本音を話し始めたの」

 野口さんの運営する守成クラブ新東京セントラル会場は縦社会をつくらず横のつながりを大事にする、本音で話せる関係をつくるなど、ほかの会場にはない自由な方針を打ち出している。会員数300人は、全国に150ほどある会場の中でもトップクラスだ。

 “人との関係はカネではない”と、ホステスをしていたときに学んだという。

 ホステスは1日に100万円や200万円落とす太客につけば1日の収入は10数万円にもなる。実家の借金も早く返したかった。自然と太客ばかりを大事にするようになった。それを見た店のママにある日「1度、5000円の客と食事に行ってきなさい」と言われた。最初は、稼いでる自分をひがんでそんな意地悪を言うのだと思った。

「でも違うのよ。1度そのお客さんと食事に行ったら、気を遣わないでいいので、心が安まるの。太客は一時的な娯楽のために来ている人たちが多く、こちらも盛り上げないとっていうプレッシャーがある。でも、その方は私の話を全部聞いてくれる。意外でした。それから細客の方が来てくれたときは“助けに来てくれた”と思うようになったの」

 彼らは、野口さんが一生懸命働く姿を見ていて、ファンになってくれた人たちだった。「ああ私、なんて勘違いをしてたんだろう」と気づいたという。当時の“低予算”なお客さんは、今でもお花を買ってくれる大切な顧客だ。

スーパーポジティブの母の教え

 野口さんの周囲からの人気を物語るエピソードがある。古くからの友人・古川香織さんは、こう振り返る。

「彼女は、こうと決めたら結果を出すまであきらめないんです。母の日に“今年はこれだけ売る”って目標を作った年があったんですよ。彼女自身も地方に行って街頭でカーネーションを売ってましたが、なぜか私も自分の経営する飲食店で売ってた。“よし、行くよ!”って戦国武将みたいに旗を振る感じ、人を巻き込むのがうまいんですよね。巻き込まれるほうも嫌じゃないの。

 それに彼女は、悪いことはダメという、お金に惑わされないクリーンさがある。ボランティア精神が強いし、困っている人がいるとなんとかしてあげたいと思うから、政治家向きなんじゃないかと思うのよ。だからみんなで都知事に出そうって話してるの。本人も“うん、それ嫌いじゃない”だって(笑)」

 いじめられ、コンプレックスにまみれた子ども時代。それを引きずっていたら、今の野口さんはいなかったはずだ。彼女には苦労を笑いのタネにしてしまう強さと、壁を乗り越えようとするバイタリティーがあった。その強さは母の影響が大きいという。

「母によくね、どんなことがあってもにこにこしてなさいって言われてたの。笑ってさえいれば幸せになれるからって。嫌なことがあっても笑えってよく言われたのね。それをフルに活かして生きてると思う」

 まだホテル勤めで給料を全部、実家に渡していた野口さんが「飲み会がある」と言うと、母は財布に3000円しか入っていないときでも、その3000円を全部渡して「行くからには楽しんできなさい。人から誘われたら、お金を借りてでも行くものよ。行ったら絶対楽しいから」と言って送り出した。他人に感謝し、どんな環境でも楽しみなさいと教わった。

「母はスーパーポジティブなの。人よりも頑張っちゃうし、人が気づく前に気がつく。私もそう教わりました。誰も気づかないことを率先してしなさいって。食事の準備をしていても、テーブルにスプーンがないことをあなたが気づかなきゃダメよって」

 無条件に他人を大切にすることで、多くの人の信頼を得ている。

 それは、5年後、10年後の自分に返ってくるだろう。野口さんが他者に向けてきた愛情は周囲に連鎖して、より大きな波長を生んでいる。

取材・文/和久井香菜子(わくい かなこ)編集・ライター、少女マンガ評論家。大学では社会学を切り口に「少女漫画の女性像」という論文を書き、少女マンガが女性の生き方、考え方と深く関わることを知る。以来、自立をテーマに取材を行う。著書に『少女マンガで読み解く乙女心のツボ』などがある。視覚障害者によるテープ起こし事業『ブラインドライターズ』代表も務める