最近、ネットで大きな話題になったのが、2016年に逝去した若手の日本思想史研究者・西村玲(りょう)さんについて報じた『朝日新聞』の記事だ(2019年4月10日付け)。

【写真】元院生の男性が放火自殺した九州大箱崎キャンパス

 西村さんは2004年に東北大学で文学博士号を取得後、日本学術振興会特別研究員(SPD)に選ばれ、さらに2008年に出版した著書『近世仏教思想の独創─僧侶普寂の思想と実践─』は日本学術振興会賞と日本学士院学術奨励賞を受賞するという、輝かしい業績を持っていた。

20以上の大学に応募するもポストがなく……

 私自身、修士課程までとはいえ、かつて文系の大学院で学んでいた経験がある。なので、上記の彼女のプロフィールには「すごい」「羨ましい」という称賛の言葉しか見つからない。よくわからない人のために(不正確を承知で)野球で例えるならば、甲子園出場校のエースから、プロ入り後に月間MVPと新人王に選出された若手選手……ぐらいの優秀なプレーヤーである。

 だが、西村さんはそれだけの業績にもかかわらず、20以上の大学に応募したが常勤のポストに就くことができなかった。日本思想史という、昨今の大学では好まれない「役に立たない学問」を専門にしていたとはいえ、あまりにもひどい話だ。

 もっとも『朝日新聞』報道では詳しい事情が曖昧に書かれていたが、西村さんの著書の版元出版社の元経営者でもある中嶋廣氏が自身のブログ上で紹介した本人の遺稿集(元編集者であった両親が作成)などによれば、彼女の逝去には他の事情もあったようだ。


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 すなわち、先行きが見えない生活と将来への不安のなかで、ネットで知り合った10歳以上年上の医師の男性から猛烈なアプローチを受けた。熱意に押されて結婚したところ、夫と夫側親族が彼の重い精神疾患とそれによる休職を隠していたことが判明。加えて家庭内で夫から攻撃的な言動を繰り返し受け続け、彼女本人も精神的に病んでしまっていた――とされる。

 なので、彼女の逝去のみについて言えば、『朝日新聞』が報じるように若手研究者の就職難が第一義的な理由だったのかは一考の余地がある。メディアを通じて問題に一石を投じる選択をされたご遺族の心情を尊重するいっぽうで、将来への不安にあえぐ人文系の大学院生やポスドクたちが、報道を契機に過剰に自分を追い詰めることがないよう、心から願いたい。

◎SNS相談リンク(厚生労働省提供) 
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000199724.html 

◎国際ビフレンダーズ東京自殺防止センター 
https://www.befrienders-jpn.org/ 相談電話番号:03-5286-9090

非常勤講師は5年で「雇い止め」が多い

 とはいえ、(広い意味では過去の私も含めた)わが国における人文系の大学院出身者の就職難や生活の困窮という問題は非常に深刻だ。非常勤講師の職業は5年勤務すると自動的に「雇い止め」に遭うことが多く、助教などのポストに就くことができても、その多くは任期制である。

 昨年9月に九州大学で、同大学院研究科の博士課程単位取得退学者の男性が非常勤講師の雇い止めに遭った末に経済的に困窮し、研究室に放火して死亡した事件も記憶に新しい(こちらは法学の分野だが)。

 加えて言えば、不器用なタイプの人はいっそう追い詰められやすい。知識は豊富だがアウトプットが下手だったり、「コミュ障」だったり外見の清潔感がなかったりと、一昔前ならある程度までは笑って許されていた変わり者の知識人タイプの人が、いよいよもって「詰む」ようになっている。

 所属先がなくなってしまうと学会に出席するときの肩書を書けず、また大学図書館の利用も難しくなるので、過去に在学した大学院に「研究生」という名目で籍だけ置かせてもらうような人も少なくない。

(余談ながら、筆者が過去に在籍した研究室のHPを修了から10年後くらいにのぞいてみたところ、10年前に博士課程や研究生だった先輩数人がまだ研究生のままで籍を置いており、ゾッとする気持ちを味わったことがある。これは自分自身の未来だったかもしれないからだ)。

大学院在学者は91年から2.5倍に

 大学院出身者の就職難は、日本国家が研究力の強化を図る“つもり”でおこなった、1990〜2000年代における大学院の拡充や大学教育現場への競争原理の導入、また新自由主義的な風潮のもとで各大学が進めていった「役に立つ学問」への偏重といった、国家政策やそれに準ずる大学側の姿勢の“改革”によりもたらされた面が多い。

 文部科学省のデータによると、平成初期の1991年(平成3年度)の大学院在学者数が9万8650人(うち博士課程は2万9911人)だったのと比べて、2016年(平成28年度)の在学者数は24万9588人(うち博士課程は7万3851人)と、ほぼ2.5倍に増加している。

 門戸が広がれば、以前ならば大学院を目指さなかった水準の学生も研究者を夢見て進学してくる。だが、学生をドカドカと入学させたにもかかわらず、少子化する日本においてその後の就職先のポストは限定的だ。しかも、博士課程まで進んでから研究者を目指さなかった場合のキャリアプランも、ほとんど示されてこなかった。

進路「死亡・不詳」が2割弱の衝撃

 もちろん、大学教授を目指すにせよ、歌手や漫画家を目指すにせよ、普通にサラリーマンとして生きるのと比べれば人生のバクチ度がはるかに大きい進路選択だ。実力主義の残酷な世界であり、能力が足りない人が「食えない」のは、国の政策だけが悪いのではなく、自己責任として甘受するべき部分もある。自分の能力を客観視して夢を諦める勇気もときには必要だ。

 だが、歌手志望者や漫画家志望者(の大部分)と、大学教授を夢見た若手研究者との最大の違いは、後者は曲がりなりにも最高水準の教育を受けていることだ。彼らは修士号や博士号を授与されたハイレベル人材であり、たとえ研究者としてのポストを得られなくても、本来ならば社会に対してなんらかの知的貢献ができる能力を持っている。

 ――だが、現実ではその能力は社会に還元されていない。本人がなんらかの資格を取っているか、実家が資産家でもない限り、人文系の大学院出身者は実学系や理系以上にツブシが効かないからだ。

 今回の『朝日新聞』記事でも、特に人文系の場合、博士号取得者で進学も就職もできなかった人が3割近く、進路が「死亡・不詳」とされた人も2割弱という、恐るべきデータが示されていた。博士号を取らずに大学院を離れた人の進路状況はより厳しいだろう。

「博士課程単位取得」のあと「ビルの清掃作業員」に

 筆者の身近にもそういう社会問題を体現している人物が2人いる。多少は話をぼかして紹介するが、いずれも年齢的には私と同年代の30代後半で、博士課程単位取得退学者(学位は修士)だ。

 例えばA君はもともと古代中国の学術史を研究しており、私が原稿を書くときに漢文の書き下し文をアルバイト的にチェックしてもらうこともある(例えば前回寄稿した「新元号『令和』、中国人はどう捉えた?」でもお手伝いいただいた https://bunshun.jp/articles/-/11357)。ただ、そんな彼の現在の職業はビルの清掃作業員だ。もちろん非正規労働者である。

 A君の年収は200万円くらいだ。対して毎月、大学院時代に借りた奨学金の返済で4万円(総額500万円程度)、家賃4.5万円プラス光熱費、国民健康保険料が飛んでいく。先日、年金の支払いを滞納していたところ給料を差し押さえられてしまい、極度に困窮したと聞いた。

 見かねた私が、生活苦を理由に奨学金返済を猶予してもらえばどうかと提案したが「好きな勉強をさせてもらったのだから払うのは義務」と言って聞かない(この手の妙な律儀さというか融通の効かなさは、高学歴ワーキングプアの人に多く見られる特徴だ)。

「雇い止め」され、大型スーパーの「ガードマン」に

 対してB君は、近代の日本占領時代の某国の宗教問題を研究している。彼はすさまじい博覧強記の人であり、例えばウェーバーでもマルクスでも孟子でも思想の概要を説明できる。インド人民党やアラブのバアス党の性質や、中央アジアのタンヌ・トゥヴァがソ連に併合された経緯について前フリ抜きでいきなり尋ねても、簡単な解説ならできてしまう。

 言語能力的な面でも、B君は英語と現代中国語と漢文のほかに、タイ語・シャン語・ビルマ語・クメール語の読み書きができて、ベトナム語とフランス語もすこし読める(※本人特定を避けるために個々の言語名はフェイクとする)。私は彼にこれらの国のニュースを調べてもらったり、現地の過激派組織が出した声明文を訳してもらうこともある。

 だが、そんなB君の年収は150万円ぐらいだ。昨年度、非常勤講師として勤務していた某大学で雇い止めに遭い、現在の職業は大型スーパーのガードマンである。

人文系の知識は「役に立つ」はずなのに……

 A君とB君に共通する特徴は、ぶっちゃけて言えば「知識はあるが論文が書けない」ことと、現代資本主義社会の基準で評価して「どんくさい」ことだ。適当な水準で妥協して論文を量産することができず、加えて自分の研究内容を俗っぽくアレンジしてメディアに売り込むことも、手練手管を使ってコネを広げてアカデミックな就職先を探すことも得意ではない。はっきり言って、研究以外に大量の雑務をこなさなくてはならない大学教員としての適性は高くないタイプである。

 だが、私はA君やB君について、現在の彼らの年収や職業が妥当な処遇であるとも思えない。なにより、彼らの知識や能力が世間でまったく無用なものだとも思えない。事実として、私は原稿を執筆する際に彼らの助言や手伝いを必要とすることが多々あり(そういうときは自腹なり出版社の経費なりで、然るべき対価を払うようにしている)、はっきり言って彼らの知識は「役に立って」いるのだ。

 先日、新元号の「令和」が決まった際、メディアでは古文・漢文についての不正確な説明や、言葉足らずな指摘が続出した。例えば「令和」の令について、「命令の令」だからダメだという浅薄な批判はあったが、令を使役の助動詞として漢文読みしたときに「和せしむ」と解釈できることへの違和感を示した報道は、私見ではほとんどなかったように思う(「和せしむ」の主語が国家であれ天皇であれ、あまり民主主義的な意味には取れないのだが)。

 ほかにも、社会における人文系の知識の必要性を感じる局面は多々ある。インバウンドによって外国人観光客が増加するなかで、中国の春節やイスラム教のハラールフード(イスラム法のうえで食べてよい食物)についてのメディアの説明は非常にいい加減だし、地方自治体が国際交流イベントなどの際に出す当該国の説明文が間違いだらけである例も多い。一部の歴史番組や歴史関連書籍が、デマを流している自覚なくメチャクチャな情報を発信する例も枚挙にいとまがない。

 これらはいずれも、街でコンビニ店員やガードマンとして働いている人文系の大学院出身者に2万円を支払い、1時間ほどでザッとチェックしてもらって意見出しをしてもらうだけで、大幅なクオリティの改善が期待できる分野だ。しかし、実際はそのようなことはなされないのである。

 現在の日本で「役に立たない学問」を研究する行為は、人生を棒に振ることと同義になってはいないか? 考えれば考えるほど暗澹たる気持ちになってしまう。

(安田 峰俊)